善福寺公園めぐり

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きのうのワイン+映画「世界最速のインディアン」「長い灰色の線」

ニュージーランドの赤ワイン「セラー・セレクション・ピノ・ノワール(CELLAR SELECTION PINOT NOIR2022)」

ワイナリーのシレーネ・エステーツはニュージーランド北島、東寄りの海に近い都市、ホークス・ベイに位置。ワイナリー名はローマ神話に登場する酒の神・バッカスの従者でワインと食事、仲間との生活を楽しんだとされるシレーニ神に由来している。

ニュージーランドは北島、南島ともにワインが生産されていて、白ワイン用生産地面積がかなりを占めるものの、赤ワインはピノ・ノワールがおよそ7割を占めているのだとか。

さらっとした口当たりで飲みやすいピノ・ノワール

 

ワインの友で観たのは、ニュージーランドのワインに合わせたわけではなくたまたまだったが、民放のCSで放送していたニュージーランドアメリカ合作の映画「世界最速のインディアン」。

2005年の作品。

原題「THE WORLD'S FASTEST INDIAN」

監督ロジャー・ドナルドソン、出演アンソニー・ホプキンス、クリス・クロフォード、アーロン・マーフィ、クリス・ウィリアムズほか。

世界最速のインディアン」というから、荒野を疾駆するアメリカ先住民(インディアン)の勇姿を描く西部劇にアンソニー・ホプキンスが酋長役で出るの?と思ったらそうではなく、インディアンとはバイクのこと。

60歳をすぎてバイクの世界最速記録に挑戦した伝説のバイカーの実話を映画化。

 

ニュージーランドの南端に位置する田舎町インバーカーギル。小屋で一人暮らしをする67歳のバート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)は、21歳のときに買ったオートバイ「1920年型インディアン・スカウト」の改造に明け暮れる日々を40年以上も続けていた。

彼の夢は、長年の憧れだったバイカーの聖地アメリカ・ユタ州の「ボンネビル・ソルトフラッツ(塩平原)」で毎年8月に開催される世界最速を競う競技会に出場して、1000㏄以下の流線型バイクの世界最速記録に挑むことだった。

何とかお金を工面して貨物船に便乗してアメリカに渡ったバート。ニージーランド訛りで苦労したりしながらも、中古車を安く買ってロサンゼルスからソルトレイクシティに向かい、ついに競技会の出場を果たす・・・。

 

アメリカの高級バイクメーカーというとハーレーダビッドソンが有名だが、“最古のメーカー”として100年以上の歴史を持つのがインディアン。

1901年に第1号機を製造。1920年に発売したのがV型2気筒600㏄11馬力最高速度88㎞の「インディアン・スカウト」だった。

のちに排気量1000㏄の「インディアン・チーフ」が発売されるが、「スカウト(斥候)」も「チーフ(酋長)」もいずれもアメリカ先住民に敬意を表したネーミングだろう。

実在の人物バート・マンローは、21歳のとき、地元インバーカーギルにあるガレージで、発売されたばかりの「インディアン・スカウト」に出会う。V型2気筒エンジンを舐めるように精査し、惚れ込み、働いて貯めたお金でこのバイクを買ったという。

彼の凄いところは、その後、40年かけてコツコツ改造していったことだが、裕福でないかわりに手づくりが好きだったらしく、金をかけずに知恵と努力で改造を加えていった。

改造に使うのは、ドアの把手とかそこらへんにあるもので、アルミを溶かしてピストンをつくり、フレームも自分で溶接してつくり上げていく。タイヤの溝は肉切りナイフで削ったりしていた。

そうやって改造したバイクを走らせて、ノーマルでは時速90㎞もいかないところを200㎞、300㎞と速度を上げていく。彼は63歳のときから毎年のようにボンネビル塩平原に出かけていって、最初の63歳のときに時速288㎞の世界記録を達成。その後も70すぎまで記録に挑戦し、68歳のときの67年には295・44㎞の記録を樹立している。非公式ながらこの年に出した最高時速は331㎞だったという。

 

そんな“スピードにとりつかれた男”バート・マンローを演じたのがアンソニー・ホプキンス

彼はこの映画のとき68歳。主人公の年とだいたい同じぐらいだが、冷徹な殺人鬼のレクター(「羊たちの沈黙」の主人公)にはピッタリでも、とても世界最速のスピードに挑むバイカーには見えない。しかし、本作でバイクを走らせるシーンは後半のほうで、物語の大半を占めるのは主人公が世界記録達成を思い立ってアメリカに渡り、目的地に着くまでの間に出会った人々との交流を描くロードムービー。つまり人間模様を描くのが本作であり、そう考えるとアンソニー・ホプキンスにはピッタリの役どころといえる。

彼はオスカー(アカデミー主演男優賞)を2度もとった演技派俳優であり、「羊たちの沈黙」(1991年)のときは、わずか12分の出演時間にもかかわらずアカデミー主演男優賞を受賞。これは同賞受賞者の中で最短出演時間というが、ちょっとしか出てなくても全編に出ていたような存在感があり、強いインパクトを与える演技をしたということだろう。

本作でも、ニュージーランドの隣家の少年との交流に始まり、アメリカに渡る船では船員たちと、渡米してからは税関職員やタクシー運転手、ホテルのフロント係のゲイの青年、先住民の男、砂漠で一人暮らす夫に先立たれた未亡人、目的地のボンネビル塩平原で出会った同じバイカーたちなどなど、さまざまな人々との笑いあり涙ありのエピソードが、実に愉快で爽快で、心に残る。

そして映画の後半、真っ白な塩の大平原をバイクで疾走するシーンは、スリリングで、そして美しい。

 

劇中、ニュージーランドの発音がアメリカ人にわからず苦労するという話が出てくるが、ニュージーランドアメリカも同じ英語圏ではあるものの、ニュージーランドの発音はイギリス・ロンドンのコックニー(Cockney)に似た訛りが強くてなかなか話が通じない。

日本の半分ほどの面積しかないイギリスだが、いまだ階級意識が強く、地域主義も強いためか、自分たちの地域で話す言葉の訛りにこだわりを持つ人が多いようで、クイーンズイングリッシュといわれるお坊っちゃま・お嬢ちゃま的な上流階級が話す言葉があるかと思えば、それとは真反対の、ロンドン東部の労働者階級が話す下町英語が「コックニー」と呼ばれるもの。

わかりやすい例がオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」。花売りの娘イライザが話す言葉がコックニーで、それを聞いた言語学者のヒギンズ教授は「ヒドイ言葉だ」とあきれ果て、クイーンズイングリッシュを叩き込んで彼女を上流社会に送り出す。

ではなぜ、ニュージーランドの言葉は下町英語のコックニーかというと、お隣のオーストラリアがもともと流刑地であり、囚人と下層階級の人々がここに送り込まれてできた国であるのと同様、ニュージーランドもまた、ロンドンの植民地会社が集めた下層労働者の移民により始まった国であるため、彼らの言葉であるコックニーが主流になったといわれている。

ちなみに、イギリスにおいてクイーンズイングリッシュをしゃべる有名人は、イギリス王室はもちろんのこと、俳優ではヘレン・ミレンヒュー・グラントなど。コックニーをしゃべる有名人は、ディビッド・ベッカムアルフレッド・ヒッチコックなど。

では、本作で役の上ではコックニーをしゃべっているアンソニー・ホプキンスはというと、彼はイギリス・ウェールズ出身で、言葉もウェールズ訛りの「ウェルシュ」という言葉。

ウェールズグレートブリテン島の南西に位置し、アイリッシュ海を隔ててアイルランドと接している。ウェールズ人の先祖はケルト人であり、はるか紀元前5世紀ごろに鉄器文化を携えてブリテン島にやってきたといわれる。

ケルト文化の残る地域であるが、同時にウェールズは労働者階級が多く住んだ地域でもあった。かつてウェールズは石炭を代表とする豊富な地下資源を産出する一大産地であり、最盛期には600以上の炭鉱があり、イギリスの産業革命を支えた。

イギリス全土から労働者がここに集まってきて、当然、話す言葉はコックニーも多かっただろう。ひょっとしてアンソニー・ホプキンスのまわりにもコックニーを話す人が多くいて、本作の出演の際も、意外と簡単にコックニー訛りが出たのかもしれない。

 

本作では、随所に挟まるバート役のアンソニー・ホプキンスの名ゼリフがきまってる。

以下、隣家の少年トムとの会話。

トム「スピードを出して衝突したら、死ぬんじゃないかって怖くならない?」

バート「このバイクでスピードに挑むときは、たった5分が一生に勝るんだよ」

一生よりも充実した5分間というわけだ。

 

バート「忘れちゃいけないよ。夢を追わない人間は野菜と同じなんだ」

トム「どんな野菜?」

バート「さあな。キャベツだ。そう、キャベツだよ」

イギリスのスラングでは「キャベツ」は「無気力、無関心な人、ぐうたら」の意味があるそうだ。

 

庭のレモンの木に飼料になるからとしょっちゅうおしっこをかけていているバート。

バート「アメリカに行ってて私がいない間、レモンの木におしっこをしてもいいよ」

トム「(激しく首を振って)・・・」

バート「安心していいよ。何も問題ないんだから。『最高の天然飼料だ』って孔子もいってたほどだ」

トム「孔子ってだれ?」

バート「ああ、やつはたしか、ダニーデンニュージーランドの町の名)に住んでる男だよ」

 

こんなセリフもあった。

「人間の一生は草に似ている。春がくると元気に伸びて、中年を迎えて実り、秋風が吹くと枯れ尽きて、もう生き返らない。人間も草と同じさ。死んだらそれでおしまいなんだ」

 

監督のロジャー・ドナルドソンは1945年オーストラリア生まれで、20歳のときにニュージーランドに移住。テレビ番組の演出をへて32歳のときの1977年に映画監督としてデビュー。

彼はテレビ時代にバートと出会い、テレビ用のドキュメンタリーを製作。夢を持つことの大切さを説くバートの人生哲学に共鳴し、バートが亡くなった翌年、1979年に本作の企画を立ち上げたというから、四半世紀をへて念願かなっての映画化だった。

 

ついでにその前に観た映画。

NHKBSで放送していたアメリカ映画「長い灰色の線」。

1954年の作品。

原題「THE LONG GRAY LINE」

監督ジョン・フォード、出演タイロン・パワーモーリン・オハラ、ドナルド・クリスプ ほか。

アメリカ合衆国陸軍士官学校を舞台に教官として働いた実在の人物の自伝を映画化した作品。先日観た「スノーデン」がアメリカの「裏面」を描くなら、こちらはちょっぴり牧歌的な「晴れの顔」。

 

陸軍士官学校で体育教官を50年間勤めてきたマーティ ・マー軍曹(タイロン・パワー)は、辞職命令に不服で、その撤回を陸軍士官学校の卒業生でマーティの旧友でもあるアイゼンハワー大統領に頼みに行き、昔の思い出話をする――。

1903年アイルランドからやって来たマーティ青年。陸軍士官学校の給仕に雇われるが失敗ばかり。やがて兵に志願して勤務隊に配属され、体育主任に見いだされて助手として働くようになる。

体育主任の家で女中として働くアイルランドからやってきたメアリー・オドンネル(モーリン・オハラ)と結婚し、それから50年。生まれたばかりのわが子の死や、長年連れ添った妻の死なども乗り越え、教官として若き候補生たちを次々に送り出していく・・・。

 

監督のジョン・フォード、それにハリウッド黄金期のスターであるタイロン・パワーモーリン・オハラのゴールデン・コンビによる作品。

陸軍士官学校は、ニューヨーク州ウェストポイントにあるアメリカ陸軍の士官候補生養成校。トーマス・ジェファーソン大統領の時代の1802年に開校し、通称ウェストポイントとも呼ばれる。

本作は、そのウェストポイントで名教官として生き抜いたマーティの人生を、候補生や家族との触れ合いとともに描くヒューマンドラマだが、第一次大戦、第二次大戦と2度の世界大戦を経験し、教え子の中には戦死した者もいる中で、士官候補生たちの育成に尽力したマーティの働きはまさしくアメリカという国の礎になるもの、というので、“アメリカ讃歌”“ウェストポイント讃歌”をうたい上げて国民の士気を鼓舞するような映画だった。

それは無理もない話で、本作はアメリカでは1955年2月に劇場公開されたが、その当時、東西の対立が深まってアメリカは世界のあちこちに軍隊を送って新たな戦争に備えていた。ベトナムでは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスが敗れ、代わってアメリカが「共産化阻止」を名目に介入を始めていたし、中東でもイスラエルアラブ諸国との戦争が繰り返されていた。第2次世界大戦が終わって平和が訪れたのではなく、冷戦という新しい“戦争”の時代を迎え、アメリカにとって戦争は終わらないまま続いていたのだ。

 

アメリカは偉大だ”みたいな感じがして鼻のつくところもあったが、ラストはなかなか感動的。

大統領に「自分をやめさせないでくれ」と直訴して、マーティがウェストポイントに戻ると、さすがに高齢の老教官にそのまま仕事を続けさせるわけにはいかないが、退職の記念として長年の功績に感謝する特別のイベントが用意されていた。

それは、ウェストポイントの候補生たち全員による分列行進だった。

何も知らされていないマーティは横で見守る学校長に聞く。

「誰のための分列行進です?」

「君だよ。候補生たちが君のために行進をしたいと申し出たんだよ」

感無量のマーティ。彼の視線の先には、にこやかに笑う戦争で死んだ教え子たち、そして妻のメアリーの姿が浮かぶ。

勇ましい行進曲とともに、いつまでも続き、どこまでものびる行進の列。

映画のタイトルの「THE LONG GRAY LINE(長い灰色の線)」とは、陸軍士官学校の象徴である灰色の制服を着た士官候補生たちが行進する姿であり、それは、どこまでも続く長い灰色の線なのだった。

マーティの教官としての人生、さらにはウェストポイントの歴史と伝統がそこにダブっているのだった。