東京・渋谷のNHKホールでNHK交響楽団第2000回 定期公演Aプログラムを聴く。
曲目は、記念すべき第2000回 公演というのでファン投票で選ばれたマーラー「交響曲第8番変ホ長調(一千人の交響曲)」。
指揮は昨年から首席指揮者になっているイタリアの指揮者ファビオ・ルイージ、ソプラノ・ジャクリン・ワーグナー、ヴァレンティーナ・ファルカシュ、三宅理恵、アルト・オレシア・ペトロヴァ、カトリオーナ・モリソン、テノール・ミヒャエル・シャーデ、バリトン・ルーク・ストリフ、バス・ダーヴィッド・シュテフェンス。合唱・新国立劇場合唱団、児童合唱・NHK東京児童合唱団。
写真はカーテンコールの様子(12月17日)
N響定期公演は1927年にN響の前身である新交響楽団の予約演奏会として始まり、96年の歳月を経て2000回を数えたことになる。
この特別な公演にふさわしい作品とはなにか。首席指揮者ファビオ・ルイージとN響はその答えを聴衆による投票に求め、総計2523票が集められた結果、過半数の票を獲得したマーラーの「一千人の交響曲」が選ばれた。
1910年にミュンヘンで初演されたときには実際に千人もの出演者が舞台に並び、それで「一千人の交響曲」の名があるが、今回も、1000人はいかないにしても、ホルン8、フルート5、ファゴット・トランペット・トロンボーン各4を加えた大編成オーケストラに8人の独唱者、混声合唱団、児童合唱団がズラリと並んで実に壮観。これ一曲だけのコンサートであり、大地を揺るがすようなド迫力の演奏だった。
マーラーを聴くようになってから、たちまち虜になってしまった。もちろんモーツアルトもベートーヴェンも、ほかの作曲家の曲も、どれもすばらしいのだが、マーラーの曲は聞き慣れた名曲の美しさだけではなく、現代人の心の機微に触れる何かがある気がする。
ハンガリー出身の指揮者ゲオルク・ショルティの次の言葉が、マーラーの曲の魅力を言い表しているように思う。
「マーラーが現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう」
マーラーの音楽の集大成といえるものが「第8番(一千人の交響曲)」だ。
マーラー本人も、指揮者のウィレム・メンゲルベルクにあてた手紙でこう書き記している。
「私はちょうど、第8番を完成させたところです。これはこれまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」「これまでの私の交響曲は、すべてこの曲の序曲に過ぎなかった。これまでの作品には、いずれも主観的な悲劇を扱ってきたが、この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えているものです」
休憩なしの演奏時間1時間25分。2部構成になっていて、第1楽章はドイツ(フランク王国)のマインツ大司教ラバプス・マウルスによる賛歌「来たれ、創造主たる聖霊よ」、続く第2楽章はゲーテの「ファウスト」終幕の場となっている。
第1楽章はとても宗教的で、讃美歌のような歌が続く。第2楽章は一転してオペラのような展開。指揮者のルイージも第2楽章について「第2楽章はオペラのシーンのようにファンタジー溢れる音楽だが、あらすじのようなものがあるわけではない。テキストであるゲーテの『ファウスト』自体がとてもシアトリカル(劇場的)で、曲も交響曲というより哲学であり、世界とは何か?人間とは何か?を読み解こうとした壮大な物語だと思う」と語っている。
マーラーはこの作品を妻のアルマに献げている。彼が自身の作品を他者に献呈したのはこれが唯一という。
アルマは、彼女自身も作曲の才能を持ち、なおかつ美貌で知られ「社交界の華」といわれた人だったらしい。結婚当時、マーラーは41歳で、アルマは23歳。18歳差の“歳の差結婚”だった。
その若さゆえか、マーラーと結婚後もアルマは男性遍歴を続けていて、彼女より4歳年下の建築家ヴァルター・グロピウス(のちにコルビュジエやライトなどと並んで近代建築の四大巨匠の一人といわれる)と不倫しているのを知ってマーラーは極度の不安障害に陥り、18歳下の妻アルマが自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状に悩んでいる、というので精神科医のフロイトの診察を受けたとのエピソードは有名だ。
そんな中での作曲(1906年)、そして初演(1910年、彼自身の指揮による)であり、何としても若い妻の心を自分に惹きつけたいと思ったのか、彼はこの曲を彼女に献呈したのだった。
妻への思いは曲の中にも充満している。
マーラーがこの曲でいいたかったのは、「愛とエロス」といわれる。ここでの「愛」とはキリスト教における愛(カリタス)、つまり神から施される「慈しみの愛」であり、「慈愛」の対極にあるのが、求め合うかのような人と人との本能的な愛であり肉体的な愛、つまりエロスだ。マーラーはこの2つの愛を融合しようとし、その熱い思いを妻のアルマに伝えたかったのではないだろうか。
マーラー自身、妻への手紙で次のように述べている。
「すべての愛は生産であり創造であって、生産にも肉体的なそれと精神的なそれがあり、これこそあのエロスの所産にほかならないという見方なのだ。『ファウスト』の最終場面でも、このことは象徴的に歌われている」
「愛とエロス」といえば、思い出す人がいる。
マーラーと同時代の画家、クリムトだ。甘美で妖艶なエロスの中に死の香りがして、人間の不安や孤独が潜んでいるような彼の作品は、金箔を多用したものも多いが、日本の金屏風や蒔絵の影響によるといわれている。
マーラーもクリムトもファースト・ネームは同じグスタフ。マーラーが1860年の生まれならクリムトは1862年の生まれ。ほとんど同時代に2人は世紀末から20世紀初頭のウィーンで活躍した。
しかも2人は友人同士で、2人を引き合わせたのは、マーラーの妻のアルマだった。
クリムトはアルマを独身のころから知っていて、愛してもいたようだ(アルマの初恋の相手はクリムトだったともいわれる)。しかし、アルマは彼の愛を受け入れず、作曲家のツェムリンスキーと浮名を流したあと、マーラーと結婚する。
2人の出会いはアルマ自身の日記によると1901年11月10日、ウィーン大学教授のサロンであった。12月20日、マーラーは手紙で「僕の音楽を君の音楽と考えることは不可能でしょうか」とプロポーズしたという。
12月27日、婚約を発表。12月30日「今日半ば結合した」と彼女の日記にある。しかし、自ら処女といい、マーラーの求めに応じたくないとも記している。1902年1月4日「あらゆる歓喜を越えた歓喜!」と彼女の日記。1902年3月9日早朝、ウィーンのカール教会で結婚式。このときアルマは長女アンナをすでに宿していたという。
一方、クリムトは、アルマとの恋に破れたことで、官能に満ちたような作品を描くようになったともいわれている。
そんなクリムトに、アルマはマーラーを引き合わせる。2人はたちまち意気投合し、クリムトを中心に結成された新進芸術家たちのグループ「ウィーン分離派」が1902年4月にセセッシオン(分離派会館)で第14回分離派展を開いた際、開幕日にマーラーはウィーン国立歌劇場の金管メンバーを引き連れてやってきて、自ら編曲したベートーヴェンの「第九」の一節を演奏している。
この展覧会はマックス・クリンガーが制作したベートーヴェン像の完成を祝って開催されたもので、クリムトの壁画「ベートーヴェン・フリーズ」が展示されている。
縦約2m、横幅が約34mという長大な作品で、ベートーヴェンの「第9」をテーマに、黄金の鎧を身につけた騎士が幸福を求めて悪や欲望を象徴する怪物と戦い、勝利して歓喜し、愛が成就するまでが描かれているが、黄金の鎧を着た勇者はマーラーがモデルといわれている。
しかし、マーラーとアルマの結婚生活は長くは続かなかった。
「第8番(一千人の交響曲)」初演の8カ月後の1911年、結婚生活11年ほどで、マーラーは病気のためウィーンで亡くなる。享年50。
未亡人となったアルマは、7歳年下の画家のオスカー・ココシュカ(クリムトやシーレと並ぶ近代オーストリアを代表する画家のひとり)と恋愛関係となり、ココシュカは裸身で抱き合う彼とアルマを描いた作品「風の花嫁」(1913年)を残している。
しかし、ココシュカが第1次世界大戦で従軍中の1915年、アルマはマーラー存命中の不倫相手であるグロピウスと再婚。ところがグロピウス不在中の1917年、プラハ生まれで当時27歳だった詩人で作家のフランツ・ヴェルフェルと出会い、関係を始める。1920年、グロピウスと離婚。1929年、ヴェルフェルと再々婚。1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されると、ヴェルフェルがユダヤ人であったためナチの手を逃れるため出国し、アメリカに亡命。ヴェルフェルは1945年、ロサンゼルスで急死(55歳)するが、アルマは音楽サロンを主宰し、ストラヴィンスキー、シェーンベルクはじめヨーロッパからの多くの亡命作曲家が出入りしたという。
1964年、85歳で亡くなる。
マーラーの墓はウィーン郊外のグリンツィング墓地にあるが、アルマの墓もその斜め後ろにあり、2番目の夫のヴァルター・グロピウス家の墓の中に眠っている。
そこにはグロピウスとの間に生まれ19歳で亡くなった娘のマノンの墓があり、アルマはマノンと一緒にここで眠っているのだろうが、墓石には「Alma Mahler Werfel 」とだけ刻まれている。「Mahler」は死別したマーラー、「Werfel 」は最後の夫でやはり死別したヴェルフェルであり、彼女はアルマ・マーラーとしても永遠の眠りについているようだ。