善福寺公園めぐり

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池波正太郎と牧野富太郎

日本の植物分類学の先駆者、牧野富太郎をモデルに、現在放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」。

戦後を代表する時代小説・歴史小説作家である池波正太郎が、富太郎の半生を劇化した芝居の脚本を書き、短編小説にもしているというのを知り、興味を持った。

短編小説は新潮文庫「武士(おとこ)の紋章」(1994年)所収の「牧野富太郎」。

この短編は1957年(昭和32年)の「小説倶楽部」3月号が初出だが、同年3月には新国劇の舞台で「牧野富太郎」が上演されていて、この芝居を作・演出したのも池波正太郎だった。

なぜ池波正太郎は富太郎の伝記を劇化し、小説にしようとしたのか?

 

池波正太郎といえば「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛け人・梅安」の作者として有名で、自慢じゃないが彼の作品はあらかた読んでいる。

しかし、初期のころに書いた短編や、戯曲なんかは読んでなくて、牧野富太郎を戯曲や小説にしていることも知らなかった。

 

池波正太郎は1923年1月浅草生まれ。最終学歴は下谷西町小学校卒業で、卒業するとすぐに丁稚奉公に出て、戦争が始まると海軍に入る。

戦後は東京都職員となり下谷区役所に勤務していたが、26歳の1949年のころから長谷川伸に師事して劇作を始める。

長谷川伸からの勧めもあったのだろう、1950年ごろ以降は座付作者といわれるほどに新国劇との関係を深め、いくつもの戯曲を書いている。

1955年(昭和30年)、32歳のとき、都職員を退職し、執筆活動に専念するようになるが、このころから小説も書き始め、56年には「真田騒動 恩田木工」が直木賞候補となる(実際に直木賞をもらったのが1960年の「錯乱」)。

その翌年の1957年3月、34歳のときに新橋演舞場で上演したのが彼の作・演出による「牧野富太郎」であり、「小説倶楽部」3月号に載ったのが小説「牧野富太郎」だ。

 

小説では、なぜ池波が富太郎に魅了されたのか、というところから話は始まる。それは富太郎の顔だった、という。

以下、小説の冒頭部分。

 

私が、牧野富太郎博士の顔に強く魅了されたのは、土門拳の〔風貌〕という写真集の中におさめられた牧野博士の肖像(ポートレート)を見てからである。九十余歳の博士の、大きな巾着頭や、耳までたれ下った銀のような髪の毛や、強情我慢的な鼻や、女のようにやさしくしまった唇や、痩せぎすな猫背を丸めて、両手に何気なく持った白つつじの花や――土門氏の対象に肉薄している撮影技術の見事さは素人の私にもよくわかるような気がしたが、何よりも私の心を引き摑んで離さなかったのは、その博士の眼であった。
白い眉毛の下に、ややくぼんで、小さな、澄みきった眼がある。それはもう、ただ澄みきっている眼をいうものはこういう眼をいうものであろうかと思われる美しさであって、一葉(いちよう)の写真を通して、この眼の美しい輝きが汲みとれるのは撮影もすばらしいものなのだろうが、撮(うつ)された対象が何よりすばらしいのだと、私は思った。

「風貌」に載っていた富太郎のポートレート

 

池波は、1956年(昭和31年)秋、劇団新国劇から委嘱されて牧野の伝記を芝居の脚本に書くことになり、冬枯れの雑木林に囲まれた牧野邸を訪ね、ベッドに寝たきりの牧野と面会する。

そのころ新国劇は「月形半平太」とか「国定忠治」といった剣劇ものだけでなく、大相撲の三根山とか名寄岩など現代の人物を扱った芝居にも取り組んでいて、植物学者として名高かった牧野富太郎を取り上げたのもその一環だったのだろう。

芝居にするという話を聞くと富太郎は大喜びで、「わしも、わしの芝居を見に行くぞゥ」と、57歳になる娘の鶴代さんに向かって、少年のような好奇の眼をクリクリと動かせては、はしゃいでいたという。

 

小説では、研究に邁進する富太郎と、夫の学問のため献身的に尽くす妻の寿衛子さんとの夫婦愛が描かれていて、妻の支えのもと仕事に打ち込んだ富太郎の姿が浮き彫りになっている。

また、小学校に2年間しか行ってなくて学歴がないことから、東京帝大に通うようになってからもさまざまに疎まれ、排斥されそうになりながらも、ひるむことなく研究に邁進する様子が描かれていて、そこには小学校しか出ていない池波自身の思いとも重なり合っている感じがした。

池波がこの作品を書いたのは、ちょうど彼が役所勤めを辞めて、筆一本で一人立ちしはじめた30代はじめのころ。好きな学問に没頭し打ち込む富太郎の人生に、強い共感の気持ちを抱いていたに違いない。

 

小説は1957年の「小説倶楽部」3月号に載り、芝居も同年3月に上演されたが、富太郎はそれに先立つ1月18日、94歳9カ月で亡くなった。

本人は観劇がかなわなかったが、牧野家の遺族が観劇に訪れていた。

このときのエピソードが残されている。

池波がこの年の「大衆文芸」5月号に「牧野博士の声」と題して書いていることだが、この芝居で牧野富太郎を演じたのは、新国劇を代表する役者・島田正吾。池波は島田に、学者という型にはまったイメージではなく、一庶民として好きな植物に身も心も捧げた幸福な男を演じてほしいと注文し、自身が牧野邸を訪ねたときに聞いた牧野の声を何気なく伝えたという。

それを聞いて島田は役づくりにも身が入ったのだろう、牧野家の人たちが観劇にきたとき、富太郎役の島田が舞台に登場すると、牧野の5歳になる曾孫が「おじいちゃんがいた」といって舞台に駆け寄ってきたという。

また、この芝居はNHKで舞台中継として放送されたが、それを聞いた目の不自由な大学生が、島田の声色が牧野そっくりだったと感心したという話が島田に伝えられ、苦労が報われたと喜んだという。

 

牧野富太郎を演じた島田正吾

(2019年に牧野記念庭園記念館で開催された「池波正太郎作・演出『牧野富太郎』写真展より)

 

富太郎の糟糠の妻・寿衛子さんは、富太郎が65歳で理学博士となった1927年(昭和2年)の翌年2月、55歳で病没する。病気は卵巣がんだったという。

小説では、こんなエピソードが紹介されている。

 

博士の眼は、私の想像よりも、もっと美しかった。
九十余年もの人生を一つの仕事に、それも好きで好きでたまらない植物学だけに打ち込んで来られた幸福さが星のように、その眼の中にこもっている。
この幸福は博士一人でかち得たものではない。
何時(いつ)の世にも男が立派な仕事と幸福を得た蔭に、必ず女性の愛情がひそんでいるように、博士にも、亡き奥さんの人生が博士の人生へ強烈に溶け込んでいるのだった。
博士が、病床から何時も眼を向けていられる位置の壁に、奥さんの写真がかかげてあった。
付添いの看護婦さんが、こんなことを私にいった。
「あの、先生はネ、ときどき、じいっと奥さんの写真を、このベッドの上からごらんになってましてネ、小さい声で、寿衛子(すえこ)、寿衛子って、呼びかけられるんですよ」

 

寿衛子さんが亡くなってから、富太郎は39年を生きた。去年は富太郎の生誕160年だったが、今年は寿衛子さんの生誕150年だ。

一方、池波正太郎は1990年5月、血液のがんである急性白血病により67歳で没。彼が27歳のときに結婚した奥さんの豊子さんは22年後の2012年に亡くなっている。

池波と豊子さんも仲のいい夫婦だったみたいで、池波はときおり執筆が終わると豊子さんを書斎に呼び、「きみも、どうだ」と酒を勧めたという。

豊子さんは池波が亡くなったあと、自分はお酒もたばこもたしなむが、「酒もたばこも池波が私に教えたんですよ」と微笑みをみせながら話していたと、2人と親しかった作家の八尋舜右氏が述べている。

今年は池波が浅草で生まれてからちょうど100年。生まれたのは奇しくも関東大震災の年だった。

父親は日本橋の綿糸問屋で通い番頭をしていて、震災の被害に遭って生後半年余りしかたってない正太郎や家族を連れて埼玉県の浦和に避難し、命拾いしたのだという。