善福寺公園めぐり

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手話による「三人姉妹」

池袋の東京芸術劇場でロシア・ノヴォシビルスクのレッドトーチ・シアターによるチェーホフ作「三人姉妹」を観る。

声に出して語られるセリフはなく、全編が手話(ロシア手話)で演じられるという実験的な舞台だった。

 

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パンフレットより。

とても感動的で、最後の方は涙が止まらない。カーテンコールでは思わず立ち上がって拍手してしまった。

「三人姉妹」は大昔に一度観たきりだが、裕福な家庭だったのが田舎暮らしを余儀なくされ、「モスクワに帰りたい、帰りたい」と願っていた希望が打ち砕かれる悲しい物語だった。

しかし、今回の舞台は悲劇の中にも希望の光が見えるような結末だった。

 

ノヴォシビルスクはモスクワ、サンクトペテルスブルクに次ぐロシア第3の都市で、シベリアの中心都市とされる。シベリアといってもヨーロッパに近い場所にあって、国内最大規模のオペラ・バレエ劇場を持つなど、文化活動においても国内有数の地盤を持っているんだとか。

「赤いたいまつ」を意味するレッドトーチ・シアターはノヴォシビルスクの州立アカデミードラマ劇場。ロシア現代演劇の拠点劇場として知られていて、同劇場の芸術監督であるティモフェイ・クリャービンの演出によるのが本作。

 

幕開け前から会場は不思議な感じで、開演前というと、ざわついているのが普通なのだが、まるで水を打ったような静けさ。観客の多くは(半分近くか?)聴覚障害を持った人たちのようで、みんなシーンとして開演を待っていた。

 

いよいよ開演。登場人物たちは手話と身ぶり、表情で演じる。舞台奥に大きめの文字で日本語と英語で字幕が映し出されるので困ることはない。

それならまるで音のない舞台かというとそんなことはなく、声のセリフはないかわりに自然音や生活音、ぶつかり合ったり、ぶつけたりする音が盛んに響く。いわば、ノイズが効果音としての役割を発揮しているのだ。

役者たちも、声を出さないかわりに息づかいや体のふれあい、ぶつかり合いで自分の意志や感情を伝え合っている。

 

手話による舞台なんて見るのは初めてで、最初はとまどいながら見ていたが、なれてくると役者たちの表現に引き込まれていく。

字幕で言葉を反芻しながら役者の演技を見ていると、なぜか言葉の意味がより深く伝わってくる気がするのだ。

それに、バタン、ガタンというノイズもなかなか効果的で、チェーホフの描く人間ドラマをより際立たせている。

 

圧巻だったのは第3幕。近所での火事騒ぎの中で、三姉妹の運命が劇的に展開していく場面。

舞台はしばしば暗転を繰り返し、真っ暗闇の中では懐中電灯が役者の顔を浮かび上がらせる。遠くで教会の鐘の音。そして、うめき声、ドスンという音。

暗闇という“色のない色彩”や鐘の音やうめき声、物音といった“ノイズ”がセリフ以上に劇的効果を高める。

 

そして最後の第4幕では、末娘のイリーナの手話、特に片手で表現する別れの言葉が何とも美しい。

軍隊も渡り鳥も去っていく別離の場面。

町から去っていく軍楽隊の行進曲が高まる中で、三人姉妹の言葉が重なる。
「それがわかったら、それがわかったら」

 

「それがわかったら」の「それ」とは、たとえ希望を失っても、自分たちが生きていく意味、であるに違いない。だから彼女たちは、生きていかなければいけない、いや、生きていこうと決意するのだ。

 

手話での表現を見ながら字幕でセリフを反芻すると、観る側は言葉の意味を自分でも考えようとする。そこに新しい表現の世界が広がるのではないか。

すると、今まで観た「三人姉妹」とはまるで違った「三人姉妹」があらわれてきて、表現の力のすばらしさに感動を覚えるのだ。