善福寺公園めぐり

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コーカサス3国旅行記⑮最終回 ピロスマニ

コーカサス3カ国の旅9日目の18日(土)、トビリシを立つ前にナショナル・ギャラリーで見たニコ・ピロスマニの絵の続き。
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加藤登記子がロシアの歌として歌って日本でもヒットした「百万本のバラ」に出てくる画家はピロスマニがモデルだという。
もともとの曲はラトビアでつくられ(以前書いたジョージアというのは誤り)、後にロシアで改変されたという。

ピロスマニの絵に「女優マルガリータ」というのがある。
マルガリータはフランス人の踊り子で、ジョージアに1905年(1894年という説もある)に来て舞台に立った。ピロスマニは彼女の美しさに魅せられ、宿泊したホテルの前が”花の海”になるほどの花を贈ったという。
このときピロスマニ43歳ぐらい(1894年なら32歳ぐらい)、マルガリータは20歳ぐらいといわれる。
感激した彼女は彼と会う約束をするが、翌朝早くに次の巡業地へと旅立っていった。
それでもプラトニックな愛を抱き続けたのか、この絵は、そのときから10年以上たってから描かれたといわれる(しかし、ナショナルギャラリーの絵の説明では制作年は書かれていない)。
『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』(はらだたけひで著)によると、1969年、パリで開催された「ピロスマニ展」に80歳半ば(あるいは90歳半ば)になったマルガリータがあらわれて、絵の前で語ったという。「当時は、彼の愛がわからなかった」と。

加藤登記子が歌う「百万本のバラ」の歌詞。

小さな家とキャンバス 他にはなにもない
貧しい絵描きが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました

百万本のバラの花を 
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラで うめつくして

ある朝彼女は 真っ赤なバラの海を見て
どこかのお金持ちが ふざけたのだと思った
小さな家とキャンバス すべてを売ってバラの花
買った貧しい絵描きは 窓の下で彼女をみてた

百万本のバラの花を
あなたは あなたは あなたは見てる
窓から 窓から 見える広場は
真っ赤な 真っ赤な バラの海

出会いはそれで終わり 女優は別の街へ
真っ赤なバラの海は はなやかな彼女の人生
貧しい絵描きは 孤独な日々を送った
けれど バラの思い出は 心に消えなかった

百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして

百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして

ピロスマニの絵は素朴で、心やさしく、プリミティブにあふれている。
彼が生きた時代は日本では明治から大正にかけて、ヨーロッパでは世紀末の幻想的、神秘的、頽廃的芸術が一世を風靡していたころ。
1862年に生まれ1918年に亡くなった彼は、甘美で官能的な絵で知られるグスタフ・クリムト(1862-1918)と生まれた年も没年も一緒だ。
それにしてはまるで違う表現。目の前の風景や生活した環境が違うと、こんなにも異なるものになるのだろうか(最もクリムトの描く風景画はかなり穏やかなものだが)。

ピロスマニの絵はたしかにおかしな絵も多い。キリンはよく見るとキリンじゃないし、ラクダの足のアンバランスでドでかいこと。
だが、絵をじっと見ていると、なぜか心が休まり、みるみると引き込まれていく。絵の前から離れたくなくなる。引きつける力はいったいなんなんだろう。
写真集だけをみていたら絶対に彼の作品のすばらしさはわからない。やはりトビリシに来て、ホンモノの絵を見るしかない。

でも、フラッシュをたかなければ撮影オーケーというので、何点かを写真に収めた。せめて思い出のよすがとしよう。

ブドウの木陰で酒盛り
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女優マルガリータ
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釣り人
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日露戦争(こんな絵も描いてたんだ。居酒屋の看板用との説もある)
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キリン
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タンバリンを持つ女(1906年
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タタールラクダと馭者
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ロバに乗る少年(1916年とあるから、亡くなる2年前の作品)
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ブドウ園(中央にワインづくりのための壺が置かれてある)
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薪売りの少年
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鹿
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水汲みに行く母子
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ピロスマニのほかに、2人の画家の絵があった。
1つはDavit' Kakabadze(ディビット・カカバゼ)(1889-1952)という画家の作品。
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ネットで調べると次のような人らしい。(グルジアナビより)
貧しい農家の家庭に生まれる。サンクトペテルブルグジョージア美術について研究し、1919年から10年間パリで過ごし、他のジョージア人画家たちと一緒に展示会を開くなどの活動をした。ジョージアに帰国後は劇場のセットのデザインや映画を製作。1928年にはトビリシ芸術院の教授を務めた。アヴァンギャルドの画家。

もう1つはLado Gudiashvili(ラド・グディアシヴィリ)(1896–1980)の作品。
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トビリシ生まれ。トビリシのTiflis school of sculpture and fine artで学び、その後パリでも芸術学校に通う。また、ジョージア象徴主義の詩人グループ「The Blue Horns」に所属していた。ピロスマニの影響を強く受けたという。

絵を見たあと、ナショナル・ギャラリー近くの公園の野外レストランで昼食。
ビールとケバブ
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法務省の建物。お固い官庁にしては斬新なデザイン。
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店先につるされた伝統のお菓子「チュルチュヘラ」。ジョージアのあちこちで見たからジョージア人はこのお菓子が本当に好きななんだな。
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その後、タクシーで空港へ。所要時間20分ほど。ターキッシュエアラインズで帰国の途につく。
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イスタンブールで乗り継ぎ、成田到着は19日の午後6時半ごろ。わが家到着は9時前。
(了)