善福寺公園めぐり

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コーカサス3国旅行記④

コーカサス3カ国の旅4日目の13日(月)はアゼルバイジャンのガバラを出発して古都シェキを通り、2つめの国ジョージアへと向かう。

実はジョージア入国後はアルメニアへ向かい、アルメニアからまたジョージアに戻ってイスタンブール経由で帰国する。それならアゼルバイジャンからアルメニアジョージアの順で旅した方が効率がよさそうだが、アゼルバイジャンアルメニアは領土問題で紛争中であり、国境は閉ざされたまま。また、アルメニアからイスタンブール経由で帰ろうとしても、アルメニアはトルコとの国交も閉ざしているからそもそも飛行機が飛んでいない。したがってコーカサス3国を巡ろうとすれば、アゼルバイジャンからいったんジョージアに入って、そこから南下してアルメニアに入国し、再びジョージアに戻るしかないのである。

シェキはかつてのシルクロードの面影を色濃く残す街。
アゼルバイジャン第4の都市だが、アゼルバイジャンで一番美しい古都ともいわれる。古くから養蚕が盛んで絹の産地としても知られる。
何より、シルクロード交易における交通の要衝にあり、アゼルバイジャンには全部で5つのキャラバンサライ(隊商宿)があるが、シェキにあるキャラバンサライコーカサス全体で最も規模が大きかったという。
キャラバンサライは今はホテルに改装され、中を見学することができる。
かつてはこの入口をラクダや馬の隊列が通ったことだろう。
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キャラバンサライの中庭。
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18世紀に時の統治者であったシェキ・ハーン(王様)の夏の離宮
何と釘を1本も使っていない木組み構造だという。
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入口の蜂の巣状の天井は「ムカルナス」といって、イランの影響を受けているといわれる。
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細かい模様が彫り込まれた窓。
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中は撮影禁止だったので詳しくは触れられないが、かなり修復が進んでいて部屋の内部は豪華な装飾で彩られている。
ステンドグラスが美しく、ヴェネチアから伝わったのだとか。
宮殿は2階建てになっていて、部屋は6つ。だからそれほど大きくはない。
2階は女性の部屋、王様の部屋、男性の部屋に分かれていて、女性の部屋はハーレムらしくバラやブドウ、ザクロ、ショウブなどの植物、王様の部屋には戦いの絵巻、男性の部屋にはライオン、シカ、クジャクなどの動物が描かれている。ショウブやザクロ、ブドウの絵は男性の部屋にもあった。
これらの植物は子孫繁栄につながり、めでたいのだとか。

シェキをあとにし、陸路にて国境を超える。
アゼルバイジャンの入国には旅行前にあらかじめビザ取得の必要があったが、ジョージアはビザ不要。
出入国の手続きも、アゼルバイジャンの出国に際しては厳しい荷物検査があったが、ジョージアではスンナリ。係官は笑顔で「コンニチワ」と迎えてくれた。
だいだい国境線は川で隔てられていることが多いもので、今回もアゼルバイジャンの検問所を出ると100mほど歩いて川を渡り、ジョージアの検問所にたどり着く。
そばに両替所があり、ドルをジョージアの通貨であるラリに替える。ちなみにアゼルバイジャンではマナトであり、アルメニアではドラム。3カ国の通貨を使い分けないといけないからヤヤコシイ。
ジョージア側にはジョージアのバスとガイドさんが待っていてくれ、再び観光が始まる。

ジョージアアゼルバイジャン同様、東西南北の人々が行き交う交通の要衝にあり、度重なる異民族の侵略と支配を受け、複雑な歴史を歩んできた国だ。
比較的東西に長い国土を持ち、黒海に面した西部には紀元前のころから王国が栄え、一方東部でも現在の首都であるトビリシの北にあるムツヘタを首都とする別の王国が繁栄していた。やがて両国ともローマやペルシャの侵略を受けるようになり、その支配下に入っていく。その後も、モンゴルやオスマン帝国、ロシアの支配を受け、ソビエト連邦の誕生とともにジョージアグルジア)共和国としてソ連の一員となり、1991年、ソ連崩壊とともに独立を果たす。

日本の呼称では長く国名を「グルジア」と呼んでいたが、これはロシア語読みの呼び名であり、今年4月、英語読みの「ジョージア」に改められた。しかし、同国の現地語(ジョージア語)での正式名称は「サカルトベロ」。
「サカルトベロ」とは「カルトリ人の国」という意味だそうで、「カルトリ」とは古代東ジョージアの古くからの呼び名という。

興味深いのは、アゼルバイジャンはアラブやトルコ系遊牧民の影響を色濃く受けて国民の大半が世俗的ながらもイスラム教であるのに対して、ジョージアキリスト教を国教としていることだ。ちなみに隣国アルメニアキリスト教を国教としていて、アルメニアは301年に世界で最初にキリスト教を国教と定め、ジョージアは337年、世界で2番目にキリスト教を国教と定めている。
同じように幾多の民族の侵入を受けながら、なぜジョージアアルメニアにはいち早くキリスト教が広まり、守られ続けたのか。そんな素朴な疑問を抱きながらの旅が続く。