善福寺公園めぐり

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キリンの斑(まだら)論争と寺田寅彦

松下貢編『キリンの斑(まだら)論争と寺田寅彦』(岩波科学ライブラリー)

今から約80年前の昭和8年(1933)、岩波書店発行の雑誌『科学』の誌上で、キリンの斑模様をめぐって論争が起こった。
ことの発端は、物理学者の平田森三が寄せた「キリンの斑模様について」と題する小論。キリンの斑模様は、粘土が乾燥によってひび割れしてできる模様に似ている。そこから考察するに、キリンの斑模様も、胎児のときに表面の被膜が成長による内部の膨張に耐えきれずに破れてできたもので、言ってみれば割れ目の名残ではないか?動物学者の教示を望む、という内容だった。

これにさっそく動物学者が反論した。「キリンの斑模様に関する平田氏の説に就きて」と題する論文を寄せ、「懐手式研究法」「物理学者にもふさわしからぬ」と平田の考察を一蹴、かなり感情的な文脈で批判した。

その後、何人かが互いに意見を述べあって、結局、論争は結論を得ないまま終わっているが、この論争にはどうやら仕掛け人がいたらしく、それは寺田寅彦であった。
そもそも平田は寺田寅彦の弟子。「物理学者の寅彦は出来合いの物理学の枠にとらわれず、誰もが身近に見ていながらも科学的には見過ごしている現象に鋭い分析の目を注いで、数々の科学的な成果を挙げた研究者であった」(本書の編者の松下氏)。
寺田寅彦の関心は幅広く、線香花火とかコンペイトウの角のでき方、椿の花の落ち方、墨流しや砂の流れ、河川の分岐のメカニズム、さらには今回のテーマのような割れ目や縞模様などにも「なぜ?」の問いを発していた。
つまり今から80年も前に寺田はすでにカオスとかフラクタルなどの複雑系、あるいは非平衡非線形科学に強い関心を抱いていたことになる。
そしてその複雑系は今や、これからの科学にとって必須のテーマになっている。

80年前は物理学者と生物学者の論争はかみ合わずに終わったが、今日、分子発生学の進展によって、キリンの斑模様については一応の結論が出ている。それが本書の後半で明かされる。
キリンの斑模様はいかにしてつくられるかというと、「反応拡散波」と呼ばれる化学反応の波によって作られるのだという。

これを発見したのがイギリスの数学者でコンピュータ科学の生みの親といわれるアラン・チューリングで、1952年、「2つの仮想的な化学物質が、ある条件を満たして互いの合成をコントロールし合うとき、その物質の濃度分布は均一にならず、濃い部分と薄い部分が、空間に繰り返しパターン(反応拡散波)を作って安定する」ということを数学的に証明した。

チューリング理論はあくまで“数理モデル”であったが、チューリング理論が実際に生物の体に存在することを証明したのが日本の科学者。大阪大学教授の近藤滋氏は、タテジマキンチャクダイの縞模様からチューリング理論を証明、1995年に「ネイチャー」に発表して注目を浴びた。
ちなみに近藤氏によると、80年前に平田が提示した「成長に伴って表面がひび割れて模様ができる」生き物はホントにいるのかというと、いる、という。それはメロン。メロンの縞模様は生産者が傷つけて作っているのではなく自然にできるもので、「これこそ元祖平田模様」と近藤氏は述べる。
そして、チューリングパターンもどこでも見ることができ、魚売り場で並んでいるサバの縞模様は、最も典型的なチューリングパターンなのだとか。

このチューリング理論、発生生物学にとって重要な示唆を与えるものらしい。これだけ遺伝子や細胞の研究が進んでも、私たち人間の体を含め、生き物の形がどのように作られるのか、まだわからないことが多い。しかし、チューリングは、反応拡散波は単に皮膚の模様を作るだけでなく、「形態形成全般に働く基本的なメカニズム」であろうと述べているという。ひょっとして私たちの体は、化学反応の波によって形作られているのか?

それはそれとして、本書を読んで思ったのは寺田寅彦の先駆性、発想の斬新さである。まだまだ彼から学ぶことはあるのではないか。現代のわれわれは改めて彼の業績を見直し、彼が考えたこと、われわれに伝えたかったことを再認識すべきではないか、と思った。

もう1つ、近藤氏も触れているが、キリンの斑模様についての疑問の着眼点に注目したい。
平田はキリンの斑模様について、「模様が何に役立つか」ではなく、「模様がどうしてできるか」に興味を持った。物事(特に自然)を考えるとき、「どうして?」の問いかけは大事な視点ではないだろうか。