善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

アイヌ民族を描いた『許されざる者』

きのうはTジョイ大泉で『許されざる者』を観る。 

クリント・イーストウッド監督・主演で1992年公開の西部劇「許されざる者」のリメイク。監督は「フラガール」「悪人」の李相日監督。主演、渡辺謙。配給も元作と同じワーナー・ブラザーズ

江戸幕府崩壊後の明治初期の北海道が舞台。かつて幕府側にあって「人斬り十兵衛」と恐れられていた男の物語。男はかつて倒幕の志士を斬りまくり、恐れられた釜田十兵衛。しかし、幕府崩壊後姿を消し、人里離れた場所で小さな2人の子どもとともに農民として細々と暮らしていた。3年前に妻に先立たれ、生きていくのがやっとの生活。

十兵衛が刀を捨ててから11年目の明治13年、かつて彼の戦友だった男(柄本明)がやってきて、また人斬りをしないかと誘う。
ここからだいぶ離れたナントカという村で、そこの娼婦が客に顔を切り刻まれ、娼婦を馬以下に扱う娼館の主人や村の警察署長の態度にガマンできなくなった娼婦たちは「稼いでためた千円を出すから、仲間の女の顔を切り刻んだ2人の男を殺してほしい」と触れを回す。つまり、賞金稼ぎの殺しの依頼というわけだ。
もう武器はとらないと誓った十兵衛だったが、貧しさから逃れるため、ついに出かけていく。

なんとまあ、西部劇と時代劇とのコラボをうまくやったもんだと感心した。明治のはじめという、あいまいモコとした時代の設定が幸いして、不自然さを感じなくさせたのか。

話のスジはほぼクリント・イーストウッドの映画の通り。だが、イーストウッドの映画では、最後はたしか男は子どもたちと一緒にどこかへ消えたという結末だったと思うが、リメイク版では十兵衛は子どもを捨てて一人孤独の旅をするという結末になっている。

でも「許されざる者」というタイトルからすると、今回の結末のほうがよかった(あるいは、そういう結末にならざるをえなかった)気がする。

そもそも賞金稼ぎのためとはいえ、人を2人殺すという設定に無理があった。
何しろ切り刻まれた女の役をただいま売り出し中の忽那汐里がやっているから、あくまで上品。かわいさは十分に出ていても、哀れさ、悲惨さはまるでない。何で彼女のために人2人を殺さなければいけないのかと不思議に思ってしまう。
しかし、そうであるからこそ逆に、十兵衛が殺人に目覚め、「許されざる者」となった映画のテーマが浮き上がってくる。

それに、西部劇だったらアメリカでは地域ごとに自治が成立していたし、ヤクザな保安官も多かったろうから、1人ぐらいやっつけてもナントカなったかもしれないが(連邦保安官とか騎兵隊だったら話は違うかもしれないが)、明治10年代とはいえ中央集権化が進んでいた日本では、たとえ開拓中の北海道とはいえ、十兵衛に殺された警察署長は国家権力の一端であり、やはり何人も殺された屯田兵は国家そのものだ。一人孤独になるしかなかったろう。

しかし、この映画のすばらしさはアイヌ民族をしっかりと「民族」として描いている点。日本は「多民族国家」なのである。
この点は日本映画の歴史の上でもエポックなのではと感じたし、李監督の功績だろう。

アイヌの血を引く若者を演じた柳楽優弥が秀逸だった。粗野でワイルドな役なんだけど、後味のいいさわやかさがいい。一瞬、「七人の侍」の菊千代(三船敏郎)を連想した。
少年のイメージしかなかったが、リッパな青年になっていたんだね。