善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

『東京プリズン』と三島由紀夫、宮崎駿

赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社)を読む。
16歳の少女マリが、留学先のアメリカの高校での「東京裁判」を模したディベートで「天皇の戦争責任」について論ずる、という重いテーマの小説。

幻想的というか、複雑な話の展開で、1980年のマリが2010年のマリと電話で話したりして、何だか訳がわからなくなり戸惑い、途中投げ出そうと思うが、何とか読み進む。
が、最終章の「十六歳、私の東京裁判」は圧巻だった。

読み終わって、この小説のモチーフは三島由紀夫の『英霊の聲』という小説にあるのではないかと思った。もう1つ、幻想的な描き方(特にヘラジカのところ)は間違いなく宮崎駿の『もののけ姫』の世界だ。三島由紀夫宮崎駿、なかなかニクい融合だ。

三島由紀夫の『英霊の聲』は本書にも登場していて、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」という一節が出てくる。
『英霊の聲』は二・二六事件天皇親政を切望して逆に皇軍に討たれた青年将校たちと、第二次世界大戦中の特攻攻撃で死んだ兵士たちの霊が、霊媒の口を借りて語り、天皇が戦後自らの神格を否定したとする「人間宣言」を嘆き呪詛する短編小説。何で天皇は人間になってしまってしまったんですか、と恨み言をいう。

ディベートの前にこの小説を読んだマリは、「私の心をとらえて離さなかった」ものとしてやはり『英霊の聲』に出てくる「架空」という言葉に注目する。
三島の小説で英霊たちは、天皇の統治した国家と天皇の治世というべきものを「架空(フィクション)」といっている。つまり英霊たちは、天皇が神ではないことを知っていたのではないか?
「知っていて騙され、結果にも裏切られたら、その恨みはどこへやったらいいのか」と『東京プリズン』では述べる。
三島はこう書くのである。
「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆえ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉わざりしか」
たとえ天皇が神である、あるいは神話、というものが架空であったとしても、死んでしまった者のために、その辛くて苦しい架空を護ってくれればいいものを──、とでもいっているのか。

マリは、ディベートで逆の立場からこうつぶやく。
「わかっていた。天皇が神でないことくらい、わかっていたんだよ。天皇を神と言った人たちは」
「それが私たちの、負けた理由なんだ・・・・・・」

神でないと知っていて神であると言いくるめようとすることの罪、ということか?