善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

日本の写真の1968

日曜日朝の善福寺公園は薄い雲が出ているが日差しは強く、暑い。
ヒマワリが咲き出した。
すごく背が高く、2mはあろうか。
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中には大人の背丈ぐらいのもあり、ようやく写真が撮れる。
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きょうはその足で恵比寿の東京都写真美術館へ。
「日本の写真の1968」展(7月15日まで)。
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宣伝文によると、1960年代後半は、戦争、革命、暗殺など、世界中のあらゆる領域でこれまでの枠組みに対して根源的な問いかけと異議申し立てが行われ、写真においても、近代写真が構築した「写真」の独自性とそれを正当化する「写真史」への問いかけが始まった、という。

特に1968年は、「写真100年-日本人による写真表現の歴史展」、『カメラ毎日』での「コンポラ写真」の特集、『プロヴォーク-思想のための挑発的資料』の創刊、そして沸騰する学生運動は大学から路上へ、さらに農村へと展開し、闘争の側から撮影した写真群が巷に叛乱してゆくなど、今日の「写真」の社会的な枠組みを考える上で重要な出来事が集中して現れた。
そこで本展では、「1968年」を中心にして、1966~74年の間で、日本で「写真」という枠組みがどのように変容し、世界を変容させていったかをたどり、「写真とは」「日本とは」「近代とは」をさぐる──とある。

東松照明森山大道中平卓馬高梨豊などなど、いろんな作家の写真があったが、一番びっくりしたのは「写真100年展」に出品されたという淵上白陽の「列車驀進」という写真。1930年の作品だ。

驀進する列車の窓から身を乗り出して撮ったのだろう。ものすごい迫力だ。

淵上白陽ってどんな人かというと、講談社の「デジタル版日本人名大辞典+Plus」によれば、こんな人。

1889-1960 大正-昭和時代の写真家。
明治22年生まれ。大正11年写真雑誌「白陽」を創刊。構成的な表現を主張した。昭和3年満鉄にはいり、広報を担当。7年満州写真作家協会を結成。同会の作品100点が満鉄により翌年のシカゴ万博に出品され、さらに全米の主要都市で巡回展示された。12年機関誌「光る丘」を創刊。昭和35年死去。71歳。熊本県出身。本名は清喜。

すごい写真家がいたものだ。この1枚を見ただけで満足。

見終わったのはちょうど時分どき。
写真美術館近くの「ビヤステーション恵比寿」で昼食。
エビス生ビールと昼のサービスセット、それに根菜のサラダ。
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