善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

近泉ピット ダンシング アット ルーナサ

きのう25日は東京・江東区新大橋1丁目に新しくできた「近泉ピット」のオープニング公演を観にいった。

もともとこのあたりは地場産業としての繊維産業が盛んで、工場や倉庫が立ち並んでいた。そういえば遠い昔の私の知り合いにも、この近くの繊維会社の2代目だったか3代目がいたが、今はどうしているか・・・。
時代の変化とともにこのあたりの繊維産業は衰退していき、今は見る影もない。衰退した古い工場を再生して、劇場にしたのが「ベニサンピット」だったが、数年前に閉場となった。
その志を継いで、新たにつくられたのが「近泉ピット」。やっぱりかつての繊維会社の建物で1階の倉庫が空いたのを、新たに借りて改装し、劇場にしたという。

オープニング公演は、ここを本拠に活動している演劇集団「tpt」による「ダンシング アット ルーナサ」。
作者はブライアン・フリール。アイルランドチェーホフといわれる作家で、この作品は1990年に世界初演、91年にはオリビエ賞、トニー賞作品賞を受賞し、メリル・ストリープ主演で映画にもなったという。

翻訳・常田景子、演出・亘理祐子、出演は武田優子、梅村綾子、蓮見のり子、浜田えり子、平田愛咲、廣畑達也、遠藤典夫、中川香果。
6月23日初日で30日(日)まで。

感想を先にいえば、おもしろかった!
特に最後のシーンがすばらしかった。「終わりよければすべてよし」というが、途中、アイルランドの匂いがプンプンする話を日本人がやるのはちょっとムリがあるよなー、とか思いつつ見ていても、あの最後のシーンで途中感じた少々の不満は帳消しとなり、感動だけが残った。
それこそがまた、芝居の醍醐味といえるものなのだろう。

1936年8月の、1カ月ほどの話。(以下、話のスジをいってしまいます)

1936年といえば、スペイン内乱が起こった年で、すでにドイツではヒトラーが総統に就任し、アジアでは翌年に盧溝橋事件が発生して日中戦争が始まり、第2次世界大戦へと突き進んでいたころ。

アイルランドのバリボックとかいったか、片田舎の、街から離れたところにある家に、教師をする長女を頭に、いずれも未婚の5人姉妹と末妹の7歳の息子マイケルがつましく暮らしている。そこに、伝道のため25年間アフリカに行っていた長兄が帰ってくるが、どうも彼は認知症の傾向があるらしい。
末の妹には恋人がいて、7歳になる子どももいるが、2人は結婚していなくて、ときどきやってくるだけの関係。そしてその恋人は、ファシストと戦うために義勇兵としてスペインに行くという。
「法王さま、法王さま(教皇のこと)」といっていたから、長女は敬虔なカトリック教徒なのだろう。しきりにアフリカでの村の宗教行事のことを楽しそうに話す長兄に対し、神に仕えるものが異教に染まっているのではと不満を募らす。

この時期、姉妹の話題の中心はルーナサの祭のこと。
しかし、この祭とてキリスト教以前のアイルランド古来の祭暦(8月1日)でケルト神話の太陽神の名に由来し、カトリック教会により禁止されたに関わらず、田舎の村はずれや山中ではこっそり隠れて祝われていたという。かがり火のまわりで踊り、女に求愛する男が火を飛び越えたり、性的な無礼講の要素もあって反キリスト教的だったとか。
そんな祭に行きたいと話す妹たちに対しても、長女は批判的である。

貧しい暮らしをしているこの家にも無線のラジオが取り付けられ「マルコーニ」といっていたが、ラジオをつくった会社のことか。突如、ラジオから流れ出す音楽はルナーサの祭の音楽か、1人が踊り出すとほかの姉妹も踊り出し、ついには長女までも踊りの輪に加わり、5人は床に激しく足を叩きつけ、狂ったように踊る。

ぎくしゃくした人間関係、経済的な貧しさ、将来への展望のなさ、そんな閉塞した空気、抑圧された気分を一気に解き放してくれるのが、アイルランド人にとっての“心の踊り”ルーナサの踊りだったのだ。

物語は、当時7歳で、今は大人に成長した末娘の息子マイケルのモノローグで進んでいくが、物語の終盤近くなって、マイケルは家族の将来がどうなったかを観客に教えてくれる。
長女は教師の仕事を失う。手編みの手袋を編むのを仕事にしていた姉妹2人は、近所に自動で手袋を編む工場ができて仕事がなくなり、ある日、2人して家出してしまうが、2人はやがてロンドン(だったか)に行き着き、そこでトイレ掃除とかさまざまな仕事で食いつないでいくが、悲惨な末路をたどることになる。
末の妹の恋人はスペイン内戦に参加するが、事故で片足を失い、末の妹と添い遂げることなく別の女性と一緒になり、やがて死ぬ。

だが、舞台は1936年のアイルランドの冷たい夏のままで、まだみんなは自分たちの将来を知らない。
知っているのは観客だけで、演技する出演者をじっと見ている。

語り手役のマイケルはいう。
「現実とは、実は幻想なのではないか」

現実とも幻想ともわからない場面で、ある者は遠くを凝視し、ある者は目を閉じ、出演者たちは動きをとめ、物語は終わる。

簡素・簡潔の舞台装置は、観客に自分の世界をつくらせてくれて、なかなかよかった。