善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

国立劇場 通し狂言絵本合法衢

国立劇場開場45周年記念「通し狂言絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」(四世鶴屋南北作)を観る。
イメージ 1

過去の歌舞伎作者たちの名作を順繰りに上演する去年10月からの長丁場も、今回が最後の企画。
イメージ 2

劇場前のしだれ桜が満開だった。
イメージ 3

イメージ 4

開場45周年記念というので歴史をたどるコーナーももうけられていて、「道具帳」とかの資料が展示されていた。
イメージ 5

12時半開演で、終わったのは16時45分。4幕12場もあるから休憩も含めて4時間を越える長丁場。
今年の歌舞伎の最高傑作といえるほど(といってもまだ4月だが)すばらしい出来ばえだった。評論家の渡辺保も「歌舞伎ファンならずとも必見の舞台」といってるが、まさにそのとおり。
片岡仁左衛門が極悪非道の悪党2役を熱演。ほかに、中村時蔵片岡孝太郎片岡愛之助市川男女蔵中村梅枝片岡市蔵市川高麗蔵坂東秀調片岡秀太郎市川左團次など。

実はこの芝居、昨年3月にも上演されていたが、大震災のため公演半ばで中止になってしまった。切符を買っていただけに残念だったが、1年後の再演でさらに洗練されたに違いない。

加賀前田家の一門・前田大学之助がモデルとされる冷酷非情な左枝(さえだ)大学之助と、彼と瓜二つの立場(たてば)の太平次という無頼漢が軸となり、本家乗っ取りの陰謀と仇討ちの物語が庶民の哀歓を織り込んでスリリングに展開。悪の放つ不思議な魅力が、歌舞伎ならではの様式美によって舞台いっぱいに広がります──とパンフレットにある。

たしかに、踏ん反り返って不敵な笑みを浮かべ、子どもでさえ平気で手打にしてしまう殿様の悪党と、ちょっと愛敬のあってユーモアもあるが根っからの極悪非道、市井の悪党を、仁左衛門が見事に演じ分けていた。
姿形のいい仁左衛門だけに悪党の殿様も似合うし、愛敬があるところもいい。そんな仁左衛門が残忍な形相で人を殺めるところをみると、観る方としてはカッコよくて「いよっ松嶋屋!」と声をかけたくなってしまうのだが、あまりにもすさまじい“悪の華”ぶりに、ほかの役者には盛大な拍手が起こっても、仁左衛門への拍手は遠慮がちだった。

今回は端役に至るまでみんなうまく、適役だった。
孝太郎の花も恥じらういい女ぶり。
左団次2役の実直ぶり。
愛之助は敵を討つ身でありながらはかない感じをよく出していた。
時蔵の「うんざりお松」、ユスリの場面の小気味よさ。

ことにすばらしかったのは仁左衛門、左団次、時蔵愛之助、孝太郎と5人揃ってのだんまり。暗やみの中で、登場人物が無言でさぐりあいをするさまを様式化したもの、これがだんまりだが、もちろん舞台は明るいままで、真っ暗闇の中という想定。
妙覚寺裏手の場で、仲間であるはずのお松までも手にかけた太平次がいるところに、左団次と時蔵(2役)、愛之助と孝太郎の2組の夫婦が通りかかり、だんまりの動き。
こんな美しいだんまりを見たのははじめて。これだけでもきょうきてよかった、と思わせる。

ただ、さすがに話が長すぎるからか、主役の1人の太平次が最後の方でいなくなってしまったのが残念。原作では太平次が善人側にやられるシーンがあるらしいが、そこはカットされ、「太平次はこのワシが成敗した」と大学之助にいわせておしまい。
1人2役だから難しかったかもしれないが、昔の白鸚のときは最後の大詰めで善人側が大学之助を討ったはずが、実は討たれたのは太平次で、大学之助が早替わりで登場するという演出だったという。できればこちらのほうが2人の悪党を堪能できてよかった。

それにしても、人はなぜ悪にひかれるのか。

もともと生き物の世界には善も悪もない。騙すか騙されるか、殺すか殺されるかは自然の摂理に委ねられていて、騙されようが、殺されようが、いいも悪いもないのである。

しかし、人間のように集団で生活するようになり、知性が発達するようになると、集団の秩序維持のためにも善悪の区別が必要になったのであろうか。

今回の国立劇場のパンフレットに、安富順さんという大学の先生が「悪を生きる──実悪小考」と題する小論を載せていて、哲学者の樫山欽四郎著『悪』の中の次のような文章が興味深かった。(ちなみに樫山氏は女優樫山文枝の父君だとか)
「悪の始まり」の章で、
「恐らく、何か具合の悪いこと、何らかの形で違和感をもたらすもの、こわいものなどに対して、身を処したことが、悪といわれるものの始まりだろうと思われる。そういう形で、夜とか、暗いところとか、嵐とかいうものに対処したところが、ことの起こりだろうと思われる。そこに人格化が行われれば、悪という名で呼ばれるのも、そんなに時がかかったわけでもないと思われる。これが人間の間に移されるとき、何かの形で、他人の生活をおびやかす人間に対し、悪人の名をつけたのだろうと思う」

なるほど。
何か具合の悪いこと、違和感のあること、こわいもの。そうしょっちゅうあっては困るが、たまには、どんなものかのぞいてみたい、体験してみたいと思うのかもしれない。なぜなら、そこに人間の本質をみることができるかもしれないからだ。

小論の筆者も述べているが、勧善懲悪が原則の歌舞伎で極悪人が主役となると(といっても最後は悪人はやられてしまうから結局は勧善懲悪なのたが)、それだけ魅力ある極悪人でないと観客は共感しない。そこで役者も工夫に工夫を重ねるわけで、観るものをますますひきつけることになるのだろう。

[観劇データ]
国立劇場開場45周年記念
4月歌舞伎公演
通し狂言 絵本合法衢
2012年4月12日(木)12時30分開演
国立劇場大劇場
1階 3列38番
前から3番目だったので役者の顔がよく見えて、花道より遠かったので舞台全体もながめられ、花道の出入りをむしろ印象深く見ることができた。