善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

国立劇場 元禄忠臣蔵

国立劇場の12月歌舞伎公演『元禄忠臣蔵』を観る。
全10作のうち今回は『江戸城の刃傷』『御浜御殿綱豊卿』『大石最後の一日』。贔屓の吉右衛門が大石蔵之助と徳川綱豊の2役をやるというので出かけていく。

芝居の最後の義士と娘の悲恋に涙するも、なかなか考えさせる舞台だった。

『元禄忠臣蔵』は10作の作品群からなっていて、昭和9年(1934年)2月に第10話にあたる『大石最後の一日』が初演(歌舞伎座)され、昭和16年(1941年)11月に第8話の『泉岳寺』が初演されるまでの7年間に計10作が上演された。つまり、物語の最後がまず最初に書き上げられて上演され、その後、順不同に上演されたことになる。

本ブログの筆者は、もちろん『忠臣蔵』は子どものときから映画、テレビで見ていて熱心なファンの1人だし、歌舞伎でも『仮名手本忠臣蔵』をたしか歌舞伎座だったと思うが全段通しで観た記憶がある。
しかし、子どものころ『忠臣蔵』に夢中になったのはチャンバラ映画がおもしろかったからであり、大人になって『仮名手本忠臣蔵』に涙したのは、赤穂事件を題材にしつつも虚実入り混じったフィクションとしての“時代物”のおもしろさゆえであった。

ところが、真山青果の『元禄忠臣蔵』は、あくまで事件を真正面からとらえ、史実に立脚したリアリティーのある心理劇だ。
そこで問題となるのが、この作品が書かれた時代。
昭和9年といえばドイツではヒットラーが総統に就任し、日本でも軍国主義化が加速したころ。前年の昭和8年には五・一五事件が起こり、国際連盟からも脱退。7年には満州国建国宣言。『蟹工船』の作者・小林多喜二が公権力の手で虐殺されたのはその前年(6年)。そして昭和12年(1937)7月、蘆溝橋事件に端を発して日中戦争に突入していく。

そんな時代に書かれた『忠臣蔵』であるなら、忠君愛国・軍国賛美の、どうしようもない話になるのではと思った。
しかし、実際はまるで違っていた。

もともと真山青果は、仇討ちを果たした大石蔵之助が切腹する日の話から書き始まっている。今では第10話となっている『大石最後の一日』はもともとは単発の作品で、二代目左団次のために書いたもので、連作することは考えていなかったという。
ところが、これが好評だったため、松竹の社長や左団次の勧めもあって連作として書き継いでいくことになったのだという。

ということは、『元禄忠臣蔵』の主題はすでにこの最後の『大石最後の一日』の中に示されているといえよう。ではその主題とは何か?

「初一念」ということだ。
討ち入り後、お預けになっている細川家で、殿さまの嫡男・内記が蔵之助に「自分が一生の宝となるような言葉はないか」と聞く。これに対する蔵之助の答えが「初一念」だった。

蔵之助「当座のこと、用意もなく申し上げます。人はただ初一念を忘れるなと──申し上げとうございます」
内記「初一念とな──?」
蔵之助「とっさに浮かぶ初一念には──決して善悪の誤りはなきものと考えまする。損得の慾(よく)に迷うは、多く思い多く考え、初発の一念を忘るるためかと存じられます」

「初一念」とは、『日本国語大辞典』によれば「はじめの一念。はじめに思い立ったある考え。最初の決心。初志」の意味という。南北朝時代にまとめられた『連理秘抄』という書物には「初一念といふがごとく、思ひ寄るところを、とかく案じ乱す事なくて、やがて出だすべし」とある。

時代が下って、幕末の吉田松陰孟子についての講義録の中でこう述べている。
「(孟子がいう)『その心に作(おこ)る』とは、初一念の事なり。
人は初一念が大切なるものにて、どこまでも附廻りて、政事に至りてはその害最も著(あら)るるなり。
今、学問をなす者の初一念も種々あり。なかんずく、誠心道を求むるは上なり。名利のためにするは下なり。ゆえに初一念、名利のためにはじめたる学問は、進めば進むほどそのの弊あらわれ、博学宏詞をもってこれを粉飾すといへども、ついにこれを掩ふこと能はず。大事に臨み進退よりどころを失ひ、節義を欠き、勢利に屈し、醜態云ふに忍びざるに至る。(以下略)」

現代語に訳せば、
孟子が『その心におこる』といっているのは、初一念のことである。
人間は初一念が大切であって、それはその人の一生にどこまでも附いて廻るので、もし、政治おいて初一念を誤ればその害は顕著にあらわれる。
学問を志す人の初一念についてもいろいろあるが、その中でも心の底からまことの道を極めようとするのは上であり、名誉利益を求めようと始めた学問は下である。それが進めば進むほどその弊害がはっきりとあらわれてきて、いくら学識や巧みな文章で飾ったとしても隠すことはできず、肝心なときに自分の拠り所を失い、節義を欠いて権勢や利権に屈し、ひどい醜態をさらすことになる」

ここでいう「初一念」とは、単に「最初に考えたこと」ではなく、「損得を考えず、1人の人間としてとっさに浮かんだ正義の心、誠の心」と解すべきだろう。
まさに「青年のようなウブな心」とでもいうべきか。ところが人間は最初はまっすぐな心でいても、時がたつうちに損得勘定をするようになり、夏目漱石の『草枕』の冒頭ではないが、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」となって、やがて世渡りのための方便を身につけ、初一念など忘れてしまうものなのだろう。

ううむ、初一念とは、現代人である私たちの生き方を問う言葉であるようだ。

では、蔵之助の初一念とは何か?
単なる復讐であるとか、ましてや主である浅野内匠頭の家臣として忠義に殉ずるとかいうものではない。
そもそもこの芝居では、内匠頭がなぜ刃傷に及んだのかの理由は最後まで明らかにならない。内匠頭がどんなに悔しい思いをしたかが問題なのではないのだ。内匠頭と上野之介との争いはあくまで私闘、喧嘩であり、喧嘩両成敗のはずだ。それならば、かたっぽうに切腹という形で責任を負わせたのなら、もうかたっぽうにも同様の責任を負わすべきであり、それが「正義」というものであろう。ところが、その正義が行われず、内匠頭が切腹しただけで上野之介は何のお咎めなし、というのはあまりにおかしい、理不尽だ、というのが蔵之助の初一念だった。

つまりは徳川政権、時の権力に対して政治の誤りを正すのが蔵之助にとっての初一念だった。(さらにいえば「間違ったことは正さなければならない」──これが『元禄忠臣蔵』の主題であり、その意味するところは、軍部や財閥が支配する天皇制国家の当時も、いまの時代も同じであろう)

その証拠に、物語の最後のところで、切腹を申しつける上使の荒木十左衛門から、上野之介のセガレは蟄居処分となり、領地召し上げ、吉良家の家名断絶となったと知らされ、ついに初一念である政道の誤りを正すことができたと深く頷いたのである。

蔵之助としても、ここに至るまでに、苦悶したり、迷ったりしたこともあったろう。それでも初一念を貫けたことが、死にのぞんでの蔵之助の喜びであり、最後のセリフでこういっている。

「これで初一念が届きました。ははははは。どれ、これからが私の番、御免下さりましょう」

こういって花道を歩いていく吉右衛門がすばらしかった。

蔵之助の初一念を貫くのが物語の縦のストーリーであるなら、横糸として芝居に厚み、深みを加えたのが、「御浜御殿綱豊卿」の徳川綱豊であり、「大石最後の一日」のおみのであろう。

「御浜御殿綱豊卿」の徳川綱豊は、初一念を貫くための苦悩を代弁している。次期将軍となる豊卿を登場させたのも現政権への批判めいていて、意味ありげだ。
(実際、第5代将軍綱吉の政治は生類憐れみ令に代表されるようにひどいもので、庶民は苦しめられていたという。次期将軍と目されていた綱豊(のちの第6代将軍家宣)は綱吉に否定的で、何とか政治の誤りを正したいと思っていた。まさに蔵之助の初一念と、スケールは違うが同じだ。松の廊下の刃傷事件の幕府の処分についても、儒臣であった新井白石に意見を求め、「喧嘩両成敗のしきたりに反して誤りである」との意見を了としていた)

おみののセリフも心を打つ。

切腹のときを待つ蔵之助らの世話を焼くため、1人の若者が立ち働いているのだが、蔵之助はその若者を見て実は女だと気づく。女はおみのといって、浪士の1人、磯貝十郎左衛門(当時25歳で美男子だったとか)が仇討ちの計画を世間の目から隠すために婚約した娘だった。
おみのは「磯貝が本当は自分の事をどう思っていたのが知りたい」と願い、細川家の堀内伝右衛門を頼ってきたのだ。

蔵之助は磯貝を呼んでおみのと対面させる。最初のうち磯貝は知らない人だと突っぱねるが、「いつも懐に入れている琴の爪を見せろ」と言われてついに本心を明かし、磯貝は「十郎左は婿に相違ござらぬ」という言葉を残して去っていく。

やがて、切腹に赴く白装束の蔵之助が通りかかると、おみのが自害して虫の息で倒れている。「これ、何ゆえの生害(しょうがい)ぞ」と愕然とする蔵之助。おみのは「さきほども申し上げました。一端の方便に作りし偽りを、最後に誠にかえすため・・・」と息を引き取る。

一端の偽りは、その最後に誠に返せば、偽りは偽りには終わらない。実(まこと)のために運ぶことも、最後の一時に偽りに返せば、それははじめよりの偽りである。

磯貝十郎左衛門は、はじめは偽りの婚約をしたが、実は肌身離さずおみのの琴爪を持ち続け、最後に「婿だ」といって誠に返した。
おみのも、男と偽って磯貝に会おうとしたが、最後は自害という誠で返した。

このおみののセリフはドラマの本筋にもダブって聞こえる。
それにしても、何もそこまでしなくてもと思うのだが、ドラマはあくまでも美しい。

[観劇データ]
2011年12月17日
国立劇場開場45周年記念 12月歌舞伎公演
元禄忠臣蔵
1階4列25番