善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

ジャーナリズム列伝

木曜日朝の善福寺公園は曇り。あまり風がなく蒸し暑い。

きょうのラジオ体操は島根県の川本町からの中継。

朝日新聞夕刊に連載中の「ジャーナリズム列伝」がときどき面白い。現在は元共同通信編集主幹の原寿雄を取り上げているが、戦後の謀略事件の1つ、菅生(すごう)事件での記者たちの活躍とともに苦悶が描かれている。

菅生事件は戦後間もない1952年(昭和27)6月の深夜、大分県阿蘇山麓の菅生村で駐在所が爆破された事件。爆破と同じころに現場近くを歩いていた男たちが、待ち伏せしていた警官隊によって逮捕された。逮捕されたのは5人でいずれも日本共産党員だった。当時、共産党は分裂状態にあり、一部は「武装闘争」と称してテロ事件を起こすグループもあり、この事件は「共産党の地下武装組織を一網打尽にした警察の大手柄」と、マスコミに書き立てられた。

ところが、この事件はまったくのでっち上げで、陰で糸を引いていたのは偽名で共産党に接近していた「戸高公徳」という男だった。戸高は現職の警察官であり、事件後、姿を消していた。

裁判になって、一審は検察の主張をそのまま認め全員に有罪判決。しかし、控訴審の裁判中、行方をくらましていた戸高を原寿雄や斎藤茂男ら共同通信の菅生事件特捜班が発見する。

これは大特ダネだったが、記事配信前に警察庁が動き出し、警察庁幹部と共同通信デスクとの間で取引が行われ、特捜班が戸高を見つけたいきさつは伏せられ、あたかも戸高が自分からあらわれたような記事となったという。
それでも、裁判では真相が明らかとなり、5人はようやく無罪となった。

またのちに、事件が起こる前、大分地検次席検事はすでに謀略の存在を知っていたことも明らかとなり、菅生事件は警察、検察ぐるみの権力犯罪だった。(ちなみに、事件を起こした戸高は裁判にかけられたものの免訴となり、やがて警察に復帰。ノンキャリアでありながら警視長にまで昇進し、退職後は関連団体に天下りしている)

17日付連載第95回の「パンかペンか」で、筆者の河原理子編集委員は次のように書く。

「菅生事件は、真相を追った若い記者たちに強い衝撃を与えた。駐在所爆破に警察が手を貸していた。検察、裁判所も信用できない。監視の必要性を痛感すると同時に、それでは当局に依存して書いた記事は何だったのか、考えざるを得なかった」

のちに数々のルポルタージュを書くようになる斎藤茂男は、「力ある者」からの情報は疑ってみることを肝に銘じた、という。

原寿雄は、多数に同調して疑わなかったことへの怖さを感じ、かつての戦争報道との共通項に思い至った、という。

「疑うこと」
それはジャーナリズムでも、われわれの日常でも、等しく大事なことだろう。