善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

志の輔らくご・大河への道 続き

けさの善福寺公園は晴れ。日差しが強いが、木陰は涼しい。
6時半からのラジオ体操をやっていると、ちょうど同じ時間、1列になって公園を周回している12、3人の青年男女グループがいる。ナニモノだろう?

ところできのうは「志の輔らくご リバイバル『大河への道』-伊能忠敬(いのう・ただたか)物語」を聴いた話を書いたが、たまたまわが家の本棚に井上ひさしの『四千万歩の男』があったのでパラパラとめくってみた。

『四千万歩の男』とはもちろん伊能忠敬である。きのうの志の輔の落語ではNHKの大河ドラマ伊能忠敬を売り込む作戦は頓挫するが、井上ひさしの『四千万歩の男』はNHKBSデジタル放送開局記念特別番組・正月時代劇「四千万歩の男 伊能忠敬」と題して2001年1月3日に3時間番組で放送されている。このときの伊能忠敬役は橋爪功。15代目片岡仁左衛門松平定信役で出ている。

講談社の「日本歴史文学館第22巻の『四千万歩の男』蝦夷編・上」の巻末に井上ひさしと画家の安野光雅の対談が載っていて、おもしろい。
2人が語っていたことの1つのは「同時代性」ということだった。

忠敬は「子午線一度の長さ」を知りたくて測量の旅に出て、やがて日本地図完成という壮大なプロジェクトを成功させる。
子午線1度、つまり、北極星の高さを測りながら真北に歩くときに、北極星の高さが1度高くなる地点までの距離(緯度1度)は直線距離にしてどれくらいあるか、というのは当時の学者たちの間で大問題となっていたのだという。子午線1度の距離を明らかにして、それを360倍すれば、地球ひとまわりの距離がわかるからだ。

そこで「私が実測しましょう」手をあげたのが忠敬だった。

忠敬が実測の旅に出たのは1800年、忠敬55歳のとき。結局、自分の足で歩いて測った結論は「子午線1度は28・2里」というものだったが、その数値は、現在のメートル法換算と比較しても誤差は0・2%たらずで、驚異的な正確さだった。

一方、同じようなことがヨーロッパでも行われていた。

メートル法を提唱したのはフランスだが、それは「地球の北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1を1メートルとする」というものだった。そこでフランスがメートル法を定めるために目をつけたのが、万国共通の目安、子午線1度の長さで、1792年から1798年にかけて、正確な距離を実測するため、パリを通過する同一経線上にあるフランス北岸のダンケルクからスペインのバルセロナまでの長さを三角測量を繰り返して計測した。

まあ、ちょっとはフランスの方が早かったが、同じ時期にヨーッロッパと日本で、同じようなことをした人たちがいたというわけなのだ。

今でこそ情報は瞬時に全世界を駆けめぐるが、それぞれがまるで違う暮しを営み、互いに隔絶しているようにみえても、人間には同時代性というのがあり、多少の早い遅いはあっても、みな等しく同じようなテーマに挑戦しては進化発展をとげているのだろうか。

火薬や印刷は中国で発明されたといわれるが、ほぼ同じころにヨーロッパでも生まれ急速に普及している。

シェークスピアが登場してからほどなくして近松門左衛門があらわれ、数々の悲劇作品を生み出している。

ところで、きのうは「忠敬の死から43年後の1861年、イギリス測量艦隊が日本にやってきて幕府に日本沿岸の測量を要求したが、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天。『日本人はすでにこんな立派な地図を持っている。それなら今さら測量する必要はない』と測量を中止して帰って行ったという」と書いたが、「イギリス側が測量させろと要求した」というのは私の早トチリで、話はまるで逆だった。

井上ひさしによると、明治になって政府は日本の地図が必要になって、イギリスから測量士を呼んで、まず東京湾を測量してもらった。そしたらたまたま江戸城の奥のほうに昔の地図があるらしいというんで、それをイギリス人に見せたところ、次の日、イギリスの測量士たちはみんな帰っちゃった。

彼らは東京湾を一応測量したものの、自分たちのものより詳しいこんな立派な地図があるんだったら、われわれは日本を測る必要はないと帰って行ったというのだ。それが伊能忠敬の地図だった。

実は伊能忠敬が苦心惨憺してつくり上げた日本地図は、幕府に納められたものの、将軍・徳川家の私設図書館である「紅葉山文庫」に入れられ、いっさい公にされることなく眠ったままになっていた。(たまたま予備でつくったものがシーボルトに渡り、世界に知られるようになるが)。

つまり、「国家秘密」の名のもとに、役人も含め日本人は日本の正しい姿をずっと知らないままでいたというわけで、権力者の愚かさはいまも昔も変わらないようである。