いよいよ来週と再来週を残すのみとなったNHKの連続テレビ小説「らんまん」。
日本の植物分類学の父といわれる牧野富太郎(1862~1957年)がモデルになっているというので毎日観ているが、きのう、きょうの回は今までの中でも秀逸の内容だった。
特にきのうは、かつての自由民権運動の仲間、早川逸馬との再会シーンに観てる方も胸キュンとなった。
(万太郎と逸馬との再会シーン)
きのう、きょうの回について語るには時代背景が重要だ。
1904年(明治37年)から06年にかけての日露戦争によって、満州の支配権を手中にした大日本帝国。武力でアジア諸国に勢力を広げていく一方で、国家神道をさらに強固なものにするため、政府は1906年、神社合祀令を発布、神社の統廃合を全国的に展開する。
これに反対して立ち上がったのが博物学者にして生物学者・民俗学者でもあった南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867~1941年)だった。
牧野のほうが5歳ほど上だが、ほぼ同時代に活躍した人物だ。
熊楠は“知の巨人”とも呼ばれるが、18カ国もの言語を操り、生物学、民俗学を始めあらゆる分野に精通し、「歩く百科辞典」とまでいわれた。世界的権威のあるイギリスの科学雑誌「Nature」に掲載された論文は50本に及び、この数は現在に至るも同誌への寄稿者の中で歴代最高という。
熊楠はなぜ神社合祀に反対したのか?
政府が推進した神社合祀は、神道の国教化を押し進めるための中央集権化の一環で、各集落ごとに数々ある神社を合祀して一町村一神社にしようというものだった。
その結果、地域で長い間信仰され親しまれてきた“八百万の神”や“鎮守の森”はどうなるか?
地域住民の信仰のよりどころを消滅させるだけでなく、自然景観の破壊や、まだ解明されていない貴重な生物が絶滅することになり生態系の破壊につながる、というので、熊楠は立ち上がり、神社合祀に反対する運動を起こしたのだった。彼が日本最初のエコロジストといわれるゆえんがここにある。
そうした時代背景の中で、きのうの「らんまん」第119話。
「(南方熊楠がいる)熊野に植物採集に行きたい」という万太郎に対して、植物学教室の教授の徳永。
「南方の運動に決してかかわるんじゃないぞ。大学は国のために、国から金をいただいて研究しているんだ。それより今は満州だ。満州に行きなさい」
一方、万太郎の妻の寿恵子が経営する渋谷の待合「やまもも」にあらわれたのは、かつての土佐での自由民権運動で万太郎とともにたたかった早川逸馬だった。
しかし、寿恵子と逸馬は初対面なので互いを知らない。
寿恵子が「夫は土佐出身の植物学者で、雑草という草はないと申しております」というと、逸馬はたちまち思い出してハタと膝を打つ。
その男こそ万太郎に違いないと、寿恵子の案内で2人の家を訪れた逸馬。
何十年かぶりの対面に感激して抱き合う2人。
そして逸馬のセリフ。
「わしは、だれもがおのれのままに生きていける世の中を夢見たけんど、また戦いの世になってしもうた。自由とは、おのれの利を奪い合うことではない。それやったら奪われた側は痛みを忘れずに、憎しみが憎しみを生んで、行き着くところまで行くしかなくなる。その点、おまんは自由の極みじゃったな」
それを聞いて万太郎の眼がキランと光る。
そしてきょうの「らんまん」第120話。
万太郎は教授の指示に従わずに熊野に植物採集に出かけていく。
熊野から帰って来た万太郎が、竹馬の友であり姉の夫でもある竹雄に、採取してきた植物見せる。
「ツチトリモチいうがじゃ。そりゃ珍しい貴重な子や」
ツチトリモチは日本固有種で、本州(紀伊半島)から四国、九州、南西諸島(種子島~口永良部島)までの山地の森林内に生育する。学名を牧野富太郎が1910年に命名。
見た目はキノコのように見えるが、キノコの傘にあたる部分は花の集まりで植物。葉緑体を持たず、木の根に寄生して10~11月に花を咲かせる。今や絶滅が心配されている貴重な植物だ。
万太郎は語る。
「和歌山にある神社の森で見つけたがじゃ。年があけたら、その森は伐採されてしまうらしい。この子は木に寄生して生きる。切ってしもうたら枯れてしまう。この子は森の小さな守り神じゃ」
竹雄「森が切られたら、この神さまも消えるじゃがか?」
万太郎「うん、木が倒され、日が差し込み、この子らは消えていく。わしは、神社の森の植物はひとつ残らず書き留めてきた。それを大学に提出する」
国の旗振りで行われているのが神社合祀。教授の徳永からは、東京帝国大学は国の機関なんだから、熊楠がやっている神社合祀の反対運動にかかわってはならんといわれ、それより日本の領土となった満州の植物を調べろと命じられた万太郎の、それがせめてもの抵抗だった。
史実では、南方熊楠と牧野富太郎は直接会ったことはなかったらしい。だが、自分が見つけた植物の検定をしてほしいと、熊楠は牧野あてに植物標本を送っている。
ドラマでも熊楠本人は登場してなくて、出てくるのは熊楠が牧野に送った植物の標本と、手紙だけ。
しかし、同じ志(こころざし)を抱いていたことは間違いがないだろう。
それにしても、当時の時代背景を綿密かつ的確に調べて、時代のうねりを感動的なドラマに仕立てている脚本家の長田育恵さんに感服する。
彼女は評伝劇の旗手として注目されている人らしい。しかも、師匠は井上ひさしだったという。
子どものころから物書きに憧れていた彼女は、早稲田大学文芸専修に進学。たまたま手がけたミュージカル脚本がきかっけで生の舞台の面白さに目覚め、働きながら日本劇作家協会の戯曲セミナーで劇作を学ぶ。
2007年のセミナーで書き上げた提出作品がきっかけで、特定の劇作家と師弟関係を結んで個人指導を受ける選抜クラス(研修課)に採用される。このとき彼女の師となったのが井上ひさしだった。
教室での授業ではなく、師にあたる作家の裁量でコミュニケーションを取りながら指導を受けるシステムだったというが、井上は2010年に亡くなっているので08年の1年間という短い期間。それでも、評伝劇の旗手として注目されるようになった彼女の“元”をつくったのは、井上ひさしとの凝縮された1年間にあったのではないだろうか。