善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

力石

地元の「関東バス」に乗ったら、近くの桃井第4小学校の児童が描いた絵が貼ってあった。「車内ギャラリー」と称して、小学校と地域との交流の一環ということだが、絵だと思ってよく見たら、子どもたちが総合学習の時間に調べた内容をまとめたもので、テーマは「力石」であった。

小学校近くにある井草八幡宮には「力石」とかいう石が保存されていて、杉並区の登録文化財になっているんだとか。へー、そんなものがあるとは知らなかった。さっそく帰って区のホームページを見てみると───。

力石の起源は石占いの一種で、かつてはこれを担ぎ上げることで、その年の豊凶を占ったといわれている。
米俵を担ぎ上げて一人前といわれていた時代には、若者たちがそれ以上の重さの力石を担いで競い合い、力試しをしたといわれる。井草八幡宮の力石は、幕末期(伝)から大正7年までに奉納されたもので、合計16個が、現在神楽殿裏にまとめて設置されている。

石には重量や奉納者などが刻まれ、軽いもので二十七〆目、重いもので五拾八貫余と刻まれている。奉納者は旧上井草村の他、関村(現練馬区)や成子町(現新宿区)の地名も見られる。

井草八幡宮誌』によれば、紀硫石、青龍石と刻まれたものは、幕末期、「小美野豊次郎方において、紀州家に出入りしていた頃、豊次郎が珍しい力持ちで、殿様御前で、この石を担ぎ上げたので、下賜せられ、それを神社に奉納したので、かかる名称をつけたとのことである。」という伝承を紹介している。

また、同誌大正7年10月1日の記事には、例大祭の時に氏子の中の力持ちが社前で石担ぎを演じその力を競い合い、その際に用いた4つの力石を奉納したことが記録されている。

これらの力石は、幕末期から大正期における杉並地域の農村青年の生活の一端をうかがわせる資料である。

軽いもので27貫というが、1貫は3・75圓世ら、100坩幣紊△襦重いものだと58貫、217・5圈昔の若者は相当の力持ちだったのだろう。「持ち上げる」という動作は、生活する上で必須のことだったのだろう。胴長短足の日本人の体型は、米俵を持ちあげるには適していたのかもしれない。それで、持ち上げる重さを競って勝つことが自慢とされた。ひるがえって今の若者たちの自慢とは───。