善福寺公園めぐり

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「最後の晩餐」との15分 北イタリアの旅⑳

北イタリアの旅13日目は、朝、ヴェローナを発ってミラノへ。

朝8時32分発の高速列車「フレッチェロッサ(FrecciaRossa)」でミラノ・セントラル駅着は9時45分ごろ。1時間ちょっとの旅。
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宿は前回泊まったのと同じ地下鉄ミッソーリ駅近くの「ホテル・ブルネレスキ」。
勝手知ったるなんとかで、駅からスイスイ。
部屋には、やはり東洋趣味の絵がかかっていた。長崎の出島の風景だろうか?
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午後1時にレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」観賞の予約をしてあるので、出かけていく。
「最後の晩餐」はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に附属するドメニコ派修道院の食堂に描かれている大画面の壁画。レオナルドが描いた唯一の壁画として、またその芸術的表現、当時の革新的技法などが注目される作品だ。
ただし、簡単には見られない。当日いきなり行っても見られなくはないだろうが、「きょうは一杯だからあしたおいで」といわれる可能性もあり、間違いなく見たいなら予約したほうが無難で、出発前に日本から予約しておいた。

早めに教会に着き、道路隔てた向かいのカフェで昼食を食べながらちょっと休憩。
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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
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教会の隣が「最後の晩餐」がある食堂への入口。
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あらかじめ窓口に行って予約番号を提示し、チケットと引き換えておく。
時間前に入口に集まる。20人ほどがいただろうか。
絵の保存のため、一度にたくさんの人を入れるのは厳禁なのだろう。
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「最後の晩餐」がある部屋に行くには2つの“関門”があって、いずれもスリガラスのドアで仕切られている。第1のドアが開いて最初の部屋に入り、2番目のドアが開いて次の部屋が食堂の前の部屋。そこで、前のグループが出ていくのを待つ。
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午後1時きっかり、最後のドアが開いて「最後の晩餐」のある食堂へ。観賞時間は15分と限られている。

「最後の晩餐」と対面する。
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1495から3年の歳月をへて描かれた。製作に着手した当時、レオナルドは43歳ぐらいだった。
420×910cmと巨大な作品だ。
部屋は、壁画があるだけでほかには何もない。
壁は修復されてはいるものの当時のままだろう。
もちろん「最後の晩餐」も当時のまま。ただし、食堂があった当時はイエスの下の空白の部分は通り抜けるための通路になっていて、向こうには厨房があったが、今は埋められている。
立っている人と比べると、けっこう高いところに描かれてある。
絵の下辺は床から2メートルのあたりというから、かなり高い。
ということは、通り抜けのための通路があったために高いところに描いたのか、と思ったら、もともとここには通路はなく、したがってイエスの足もちゃんと描かれていたという。17世紀に食堂と厨房の間を出入りできるようにするための通路が設けられ、その部分は完全に失われてしまった。
高い位置に描いたのはレオナルドの意図によるものだったのだろう。
一点透視図法と呼ばれる技法を用いて部屋を立体的に描いており、ある位置から見ると絵の天井の線と実際の壁と天井との境目がつながり、部屋が壁の奥方向へと広がって見えるよう描かれているという。

レオナルドはこの壁画をテンペラ画で描いた。テンペラ画は何度でも塗り重ねができるため、重厚感や深みのある色彩表現が可能。緻密な描写を得意とするレオナルドには理想的な描画方法だが、絵の傷みが早く、食堂という湿気の多い部屋であることもあり、絵の具の剥落が早い時期から始まったという。
このため、20世紀に入っても1977年から1999年にかけて大規模な修復作業が行われている。

近くに寄って見る。
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絵の上部の紋章や半円形の装飾もレオナルドの筆によるものだという。
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だんだん退去の時間が迫ってきた。
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反対側の壁に描かれてあったのはジョバンニ・ドナート・モントルファーノ(1440~1504年)のフレスコ画「キリストの磔刑」。1495年作という。
レオナルド(1452~1519年)と同時代の人で、「最後の晩餐(1495~1498年)」と同じころに描かれた。
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お互いに反対の壁に向かって、冗談でも言い合いながら、あるいは励まし合いながら、あるいは何も言わず黙々と、筆を走らせたのだろうか。

あっという間の15分間だった。
(つづく)