善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

N響のチャイコフスキー「交響曲第1番」@東京芸術劇場

NHK交響楽団定期演奏会の「Bプロ」をそのまま池袋の東京芸術劇場に持ってきてコンサートを開くというので聴きにいく。(12月14日土曜日)

 

指揮はスペインを代表する指揮者の一人、パブロ・エラス・カサド。1977年生まれの41歳。

曲目は、リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」、リストの「ピアノ協奏曲 1 変ホ長調」、チャイコフスキーの「交響曲1 ト短調『冬の日の幻想』」。

 

「ピアノ協奏曲第1 変ホ長調」でソリストとして登場したダニエル・ハリトーノフ1998年サハリン生まれの21歳。7歳でモスクワフィルと共演、2015年のチャイコフスキー国際コンクールで第3位入賞するなど新世代ロシアを代表するピアニストだとか。

 

しかし、何といっても感動したのはチャイコフスキーの「交響曲1番」だった。

大ホールで生で聴く交響曲にしびれる。

1866年に作曲した当時、チャイコフスキー26歳だったという。

親しみやすい旋律で、特に第2楽章のオーボエのソロ演奏に癒される。

最後の第4楽章でファゴットが吹くメロディーは、どこか日本の旋律にも似ている感じがしたが、南ロシア・カザン地方の「咲け、小さな花」という民謡で、この地方での1861年の学生運動において農奴解放の象徴歌だったという。

 

それにしても若くして才能を発揮するとは、さすがチャイコフスキーって天才、さぞや小さいうちから活躍してたのか?と思ったら、彼はモーツアルトベートーヴェンのように子どものころから音楽教育を受け、才能を発揮してきたわけではなかったという。彼は法律学校を出て法務省に入り、官吏の道を途中でやめて音楽の世界に入ってきた、かなり遅いスタートの音楽家だったようだ。

青年期に味わった実社会における人生の喜び、悲しみが、曲づくりにも影響を与えているのだろうか。

 

チャイコフスキー家はもともと貧しいコサックの出自だったという。医師であった祖父の代に貴族に叙せられたが、身分としては中流以下の貴族だった。父親は鉱山技師であり、地元の製鉄工場の工場長をつとめていた。母親はフランスから亡命してきた侯爵の末裔で、父はフルートをたしなむなどして文化的な家庭を築いていたという。

 

チャイコフスキーは幼少のころから音楽的才能を示していたが、両親には音楽家にする意志はなく、息子を役人として出世させたかった。なぜなら、貴族階級出身の法律家を養成するための法律学校がサンクトペテルブルクにあり、チャイコフスキー10歳のとき、そこに寄宿生として入学。ただし、大貴族の子弟のためにはさらに別のエリート校があり、チャイコフスキーが入ったのは中流以下の貴族家庭の子弟のための学校だった。

1859年、19歳で法律学校を卒業して法務省に入省。九等官の官位を当てられる。これは今でいうキャリア組で、翌年には課長上級補佐になり、最終的に1867年には官位は七等官、陸軍中佐に相当する地位になる道が開けていた。

 

こうしてチャイコフスキーは官吏として平凡な日々を送っていたが、1861年の秋から人生に変化が起こる。音楽教育を行っている帝室ロシア音楽教会の存在を知り、根っから音楽が好きだった彼は音楽クラスに入学する。この音楽クラスは翌1862年にアントン・ルビンシュティンによってペテルブルク音楽院に改組。ここでチャイコフスキーは音楽を本格的に学ぶようになる。そしてついに18634月、23歳のときに法務省の職を辞して音楽に専念することを決意する。

つまりチャイコフスキーは一般高等教育を受けたあとに音楽教育を受けており、音楽家としてのスタートはかなり遅いものとなった。

 

法務省の職を辞したチャイコフスキー1865年、25歳でペテルベルク音楽院を卒業。恩師であるアントン・ルビンシュティン6歳下の弟、ニコライ・ルビンシュティンと出会い、モスクワに向かう。

ニコライはモスクワ音楽院の創設者。チャイコフスキーはそこに音楽理論の講師として招かれ、以後12年間にわたり教鞭を取ることになる。

チャイコフスキーはニコライの家に寄宿し、音楽院卒業後、最初の作品が1866年に完成させた交響曲第1番だった。

 

しかし、楽譜を師であるアントン・ルビンシュティンに見せると酷評されてしまう。チャイコフスキーはニコライに励まされて改訂を進め、第2稿を完成させて1868年、ニコライの指揮によりモスクワで初演。

その後も改訂が行われ、改訂された第3稿による初演は彼が43歳のとき、1883年にモスクワにおいて行われている。

さらに彼は曲に手を入れ、現在、チャイコフスキーの「交響曲1番」として演奏されるのは、48歳のときに改訂した楽譜を使っていることがほとんどだという。

そのときすでにチャイコフスキー交響曲5曲も完成し、ロシアを代表する作曲家となっていたけれど、やはり最初の交響曲への思い入れは強いものがあったに違いない。

 

来年2020年はチャイコフスキー生誕180年。「交響曲1番」の作曲から150年余となる。