善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

立山連峰縦走記 北前船廻船問屋「森家」

7月31日から8月4日まで、富山県東南部の長野県境近くにある立山連峰縦走の旅に行ってきた。そのときのエピソードを綴ろう。

なぜ登ろうかと思ったかというと、今から20年ほど前、ツレアイと2人で立山に登った。今回と同じコースだ。そのときの山頂からのながめがすばらしくて、やがて息子が成長したら、一緒に登って家族3人でながめを満喫したい、と思った。
ところが、そう思ったまま月日がたち、もう来年になったらこっちの体力が持たないかもしれない、と今年いくことにした次第。

3000m級の山に登るなんてもう何10年ぶりのこと。ちゃんと登れるか心配で、この1か月ほど3回ぐらい高尾山に登って“強化鍛練”を行ったが、何とか体力は持つだろうと判断できた。

それより心配だったのがお天気。雨の中、立山に登りたくはない。山頂からの眺めがすばらしくて、それで登るのだから、何としても晴れてほしい。
しかし、今年の夏はちょっとおかしくて、東京は7月上旬に早々と梅雨明けしたと思ったら、西日本や東北は豪雨被害。北陸も中旬以降ずっとぐずついていて、いまだに梅雨が明けてない(8月3日にようやく梅雨明け)。

1週間前に天気の様子を見て登山を決行するかどうか決めようと思っていたが、8月1日あたりからは週間天気予報に「曇りマーク」が出てきたので、「たぶん晴れるのでは?」と8月1日からの登山を決断。

予定では、31日深夜発の高速バスで6時半ごろ富山駅前着。そこから7時45分発の富山地鉄の直行バスに乗り継いで室堂に10時15分着。室堂平周辺を散策して、午後、標高2705mにある一ノ越山荘到着(室堂からはゆるやかな登りで1時間ほど)。同山荘に1泊して翌日は早朝から登山開始。できれば雄山(3003m)山頂でご来光をあおぎ、あとは基本的に尾根歩きで、大汝山(立山連峰の最高峰で3015m)、富士ノ折立(2999m)、真砂岳(2861m)別山乗越から下山路に入り、雷鳥坂を下って午後3時ごろには室堂まで下山の予定。

念のため、同行したツレアイの実家が富山市内にあるので、予備日を設けて2日、3日は実家に滞在し、4日の日曜日に東京に帰る予定にしていた。

ギリギリまで待って、1週間前に一ノ越し山荘の予約をとり(昔は山小屋は基本的に予約なしでも泊めてもらえたが、今は予約が必要らしい)、深夜バス、室堂までのバスの切符も手に入れた。

ところがである。
1日朝6時半、富山駅前に到着すると、土砂降りの雨。「こりゃ、山も雨だな」と一ノ越山荘に電話を入れると「このところ雨続き。今も雨が降ってます」との返事。やむなく予約をキャンセルし、「あすの金曜日は?」と聞くと、「あすもあさっても予約でいっぱい」と断られる。そりゃ、直前じゃねー。
室堂までのバスの切符もキャンセルし、本日は登山をあきらめ、ツレアイの実家へ。
結局、夕方まで雨は降ったり止んだり。それでも「ひょっとしてあすこそ晴れるかもしれない」と空いている山小屋を探したところ、運よく室堂より歩いて1時間ほどのところにある天狗平山荘に空きがあり、なんとか2日に宿泊の予約ができた。
バスもあらためて2日朝7時45分発のバスを予約。2日~3日の日程で再度、立山縦走にチャレンジすることになった。

予定を1日ずらして空いた1日はどうするか。実家から比較的近いところに国指定重要文化財の建物があるというので、クルマを借りて見に行く。

場所は富山港に近い岩瀬町。富山港につながる岩瀬運河のそばにある北前船廻船問屋「森家」。
イメージ 1

江戸時代から明治期にかけて、日本海ルートの北前船による商取引が盛んに行われたが、地元では北前船のことを“倍倍に儲かる”というのでバイ船とも、船の往復で儲かるので「のこぎり商売」ともいわれ、財をなしたという。

明治11年に建てられた建物は当時のたたずまいを残す廻船問屋型町屋の1つ。
屋久杉の板戸、能登産黒松の梁、囲炉裏を飾るロシアの琥珀(こはく)、土間には小豆島産の巨大な1枚岩などの贅が尽くされ、棟梁は京都の東本願寺を普請した親方を呼び寄せたという。

細かいところまで神経が行き届いていて、商談に使われた「オイ」という15畳ほどの囲炉裏の部屋は、畳の敷き方が変わっている。川の流れを表現した敷き方になっていて、これを「模様敷き」というんだそうだが、ウーム、昔の人はしゃれたことをする。
イメージ 2

客が泊まる部屋の天井板はサクラが使われ、木目はよーく見ると「龍」に見えるんだとか。
イメージ 3

表の通りに面したところには窓の代わりに「簀虫籠(すむしこ)」というのがあった。これは竹を細く切って組み上げたすだれのようなもので、外からは中が見えず、中からは外がよく見える仕組み。よーく見てみると、表側は竹の表面が垂直になっていて、裏のほうは丸みがついている。竹の特性を巧みに生かしたもので、先人の知恵というべきものだろう。
イメージ 4

この「簀虫籠」の知恵は現代にも生かされていて、新歌舞伎座の設計でも知られる隈研吾氏は、2006年に山形県銀山温泉の「旅館藤屋」を設計したとき、「簀虫籠」を取り入れ、新しい空間表現に挑んでいる。

夜は、地元の北日本新聞社主催の納涼花火大会。
富山大空襲で犠牲になった人たちの鎮魂と永遠の平和を願うため終戦直後の昭和22年から行われているそうで、神通川の河原で3000発もの花火が打ち上げられた。
イメージ 5