善福寺公園めぐり

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本居宣長の薬広告文

図書館から借りた青木歳幸『江戸時代の医学 名医たちの三〇〇年』(吉川弘文館)を読む。

青木氏は佐賀大学地域学歴史文化研究センター教授。日本医学の制度や思想の源流が江戸時代にあったという新視点を交えた江戸時代医学史、というのが本書の触れ込みで、杉田玄白や花岡青洲、緒方洪庵シーボルト、曲直瀬道三らが取り上げられている。
でも、読後感は「江戸時代の医者の伝記集」という感じ。
それぞれのエピソードはへーと思うところがある。

5代将軍綱吉のときの「生類哀れみの令」は、最初は生類の中での捨て子、捨て老人、捨て牛馬の禁止を趣旨としていたという。
以後の生類哀れみの令(つまり生類哀れみの令というのは1つじゃなかった)で犬、猫、鳥などの過剰保護に拡大し、天下の悪法といわれるようになるが、綱吉の死後、中野にあった広大な犬小屋は廃止されても、捨て子、捨て牛馬禁止令はその後も残されたという。
だから江戸では、捨て子があると町内全体で育てる義務を負わされていた。

つまり「生類憐みの令」はもともと社会的弱者の保護が目的であり、社会福祉立法の先駆といえるものなのかもしれない。

また、綱吉の時代には医療制度も整えられ、薬草・薬種の採取を奨励したりもしていたという。
綱吉は犬公方と揶揄され、暗君のイメージが強いが、もっとちゃんとした歴史の評価が必要なのかもしれない。

また、江戸時代は幕府をはじめ大名や武士、金持ちの町人のための医療はやられていても、庶民向け、特に農村の医療は軽視されたと思いがちだが、たしかに江戸前期は無医村状態だったが、江戸後期には各村に1人以上の医師が存在するまでになったという。

ワタシ的におもしろかったのが本居宣長についての記述。
本居宣長は『古事記』の研究など国学の大家として歴史に名を残しているが、本業は医者であり、内科・小児科医だった。
医業と国学研究という2足のワラジを履いていた宣長のエピソードとして興味深かったのが、自分のところでつくっている薬の広告文。
このうち六味地黄丸についての広告文が残っていて、本書でも紹介されている。
へーっと思って調べてみると、彼はなかなか優秀なコピーライターでもあったようだ。

話は横道にそれてしまうが、小林秀雄の『本居宣長』(新潮社)にその全文が載っていて、小林秀雄は「この広告文にこそ宣長という人の気質に即した文体が歴然とあらわれており、こういう彼の文体の味わいを離れて彼が遺した学問上の成果をいくら分析してみてもダメである」というような意味のことを新潮社のPR誌『波』で述べている。

宣長の広告文は以下の通り。

「六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々コヽニ挙ルニ及バズ、然(しか)ル処、惣体薬ハ、方(ほう)ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁(せいそ)ニヨリテ、其功能ハ、各別二勝劣アル事、是亦世人ノ略(ほぼ)知ルトコロトイへドモ、服薬ノ節、左而巳(さのみ)其吟味ニも及バズ、煉薬(れんやく)類ハ、殊更(ことさら)、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而(かつて)此吟味二及バザルハ、麁忽(そこつ)ノ至也、因玆(これゆえに)、此度、手前二製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味(ぎんみせしめ)、何れも極上品を撰ミ用ひ、商又、製法ハ、地黄を始、蜜二至迄、何れも法之通、少しも麁略(そりゃく)無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、且又(かつまた)、代物ハ、世間並ヨリ各別二引下ゲ、売弘者也」

要するに、六味地黄丸という薬のことはだれでも知っているが、どれも同じだと思ったら大間違い。うちのは原料を吟味して極上品を使っていて、作り方も定法どおり、念には念を入れて作っており、しかもお代はほかより格別に下げて売っておるんですよ、というわけで、なるほど宣長の宣伝上手ぶりがよくわかる。

話は『江戸時代の医学』に戻るが、宣長の医学理論についても触れている。
宣長はいう
「病は薄薬軽剤によって治すのではなく、病を征圧できるのは一気のみである。・・・治療の方術は気を助けることにある、気を養うことが医の至道である」
つまりは薬ばかりに頼ってはいけないということか。

宣長は今日のエビデンス(科学的根拠)にもとづく医療みたいなこともいっている。
「すべて新なる説を出すは、いと大事也、いくたびもかへさひおもひて、よくたしかなるよりどころをとらへ、いづくまでもゆきとおりて、たがふ所なく、うごくまじきにあらずば、たやすくは出すまじきわざなり」
新説を出す場合はより確実な根拠にもとづかなければいけない、といっている。

医療とは違うが宣長は死刑制度を批判的にとらえていて、「法を守るだけの軽薄無実の死刑は慎むべきだ」と述べている。これについて青木氏は「庶民の命に関わることの多かった医師宣長だからの言であろう」としている。

江戸の医学ははじめは漢方全盛だったが、やがて蘭学、西洋医学へと変わっていく。そこのところを青木氏は、単純に近代化や西洋化の流れの中で漢方から西洋医学へと変っていったのではなく、漢方が西洋医学をどのように受け止め、どう調和的に発展させようとしたかの視点を織りまぜながら描こうとしていて、その点は好感が持てた。

青木氏の用いる言葉に「在来知」というのがある。
在来知とは、土着知ともいい換えができる言葉で、人びとが古来、自然や社会環境と関わる中で形成していった実践的、経験的な「知」といった意味であろうか。歴史変化の分析概念の1つという。
経験則とでもいったほうがいいか、長年の暮らしの中で培った在来知と中国から渡来した医学とが融合して、日本の風土や食生活などに適合したものが日本独特の「漢方」であろう。

西洋医学も同じように「在来知」との融合があり、青木氏によれば、「神経」という日本語は『解体新書』の翻訳にあたって杉田玄白らがつくった造語だが、オランダ語からこの言葉をつくるとき、彼は日本に独自に根づいた漢方医学の知識から学んで「神経」という新しい医学用語を生み出したという。

その後の西洋医学も、日本の風土や日本的食習慣などに適合した形で発展していったはずで、「日本人にあった医学」とは、現代の医学においても大切なキーワードだと思う。