善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

釜山・慶州の旅2 冬至の日がさす石窟庵

2日目は朝7時起床。ホテル前の24時間営業の「名家」というおかゆの店に入る。
アワビ粥、カルビクッパ、冷麺をそれぞれ注文。しかし、この店、団体さん御用達の店のようで、われわれが座るとドカドカと団体客がやってきて、たちまち料理が出る。こっちに出てきたアワビ粥もとっくの昔に作ったものらしく、ぬるかったと食べた人の談。次回からは店選びに気をつけよう。

本日は運転手兼ガイドの男性が運転するレンタカーで、かつて新羅の都があった慶州へ。
朝8時出発、午後6時帰着の予定で、日本で事前に予約しておいた。

慶州は紀元前57年ごろ、新羅の前身に当たる国があったときに都となり、以後1000年近く、国王の数で56代にわたり新羅の政治・文化の中心になったところ。
新羅が全盛を究めた 8世紀ごろ、世界の4大都市といえば唐の長安ビザンチン帝国のコンスタンティノーブル(イスタンブール)、 イスラム帝国バグダッド、それに新羅の都、つまり慶州だったという。

町全体が巨大な遺跡であり、埋もれたままで、未発掘の遺跡も数多いとか。掘れば必ず遺跡が出てくるので、うっかり高いビルは建てられないという話を聞いた。

1995年に仏国寺と石窟庵がユネスコ世界遺産に登録され、2000年には石仏がある地域も含めた慶州全体が慶州歴史地区として世界遺産に登録された。さらに2010年には慶州郊外の良洞民俗マウル(村)が登録されている。今回は仏国寺と石窟庵、それに良洞民俗マウルを1日かけてめぐる。

慶州はサクラの町としても知られている。ガイドさんの話だと慶州には30万本サクラの木があるとか。
しかし、今年は開花が遅れていて、われわれが行った日はまだつぼみだった。
それでも、レンギョウやコブシ、モクレンサンシュユ、ツバキなど、日本でも見慣れた花々が沿道を彩っていた。

瓦屋根の建物が多い。町全体が世界遺産となっているため、瓦屋根が義務づけられているという。高速道路のゲートも、マンション、ガソリンスタンドも瓦屋根だった。

仏国寺は創建の時期は諸説あるが、528年に建てられたとの記録があるという。
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新羅に仏教が伝わったのは527年と歴史の本にある。そのわずか1年後だ。日本への仏教伝来は538年とされているから、それより古い。
その後、増築、改修を繰り返しつつ約1000年にわたって繁栄を続けたが、16世紀末に日本の侵略(文禄・慶長の役)によって大半の建物が焼失した。現在見ることのできる仏国寺の姿は1970年代から復元されたものという。

日本なら「一富士、二鷹、三なすび」だが、韓国で縁起がいいのは「金のブタ」。
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日本の干支にはイノシシがあるが、韓国ではブタだ。韓国にはイノシシはいないのだそうだ。
2007年は、600年に一度めぐってくる「黄金のブタ年」というのでベビーブームになったとか。
仏国寺にも金のブタがあって、ご利益があるというので撫でてきた。

仏国寺よりすばらしかったのが山の中腹にある石窟庵だ。

もともとは仏国寺に付随する庵として建てられたというが、この地に豊富な花崗岩御影石)をドーム型に組んで作られた石窟寺院だ。
今は建物が建ち、しかも本尊(釈迦如来座像)は保存のためガラスで覆われてしまってよく見えなくなっているが、もともとは建物などなく洞窟に野ざらしだった。
山の中腹にある今の石窟庵。建物が建っている。
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昔の石窟庵。本尊が丸見えだ。
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上から見ると石窟庵の手前側は四角い形をしていて、奥は円形。手前を前室と呼び、間の通路を扉道、奥が主室と呼ばれる。この主室に穏やかな表情の本尊が置かれ、本尊を取り囲む後ろの壁に十一面観世音菩薩像、まわりに十大弟子像、菩薩像、天部像、四天王像、仁王像、八部神衆像とたくさんの仏像彫刻が並べられてある。

石窟庵の創建は751年といわれる。

なぜ野ざらしだったかは理由がある。本尊は南東30度の方向に鎮座していて、ちょうど冬至の日、海からの朝日を全身に浴びるような造りになっているという。つまり、太陽信仰と深くかかわっているのが新羅の仏教信仰なのだ。
石窟庵からの眺め。その先は海だ。
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これは高句麗の歴史の本に出てくることだが、高句麗の初代国王・朱蒙について、こんな伝説がある。
川の神の娘が奥深い部屋に閉じ込められたところ、日光が彼女を照らし、体を避けようとしても日光は追ってきて、娘は子を孕んで卵を産んだ。それが初代国王である、とのいい伝えがある。
日の光は生命誕生の源なのである。

1年でもっとも太陽の輝きが乏しいのが冬至だ。だが同時に、その日を境に輝きが増していくことを意味する。つまり、新しい太陽の誕生の日が冬至なのだ。

クリスマスも、もともとは冬至の祭りから始まったといわれる。
メソポタミアの太陽神ミトラが冬至に生まれたのを祝ったのがローマ帝国の全土に広がり、太陽の誕生日、つまり年の始まりとされた。それがやがてキリスト教と結びついてクリスマスとなった。
イギリスでは、1752年に太陽暦になるまでは冬至が年の初めだったという。

太陽神ミトラの信仰は仏教とも融合し、シルクロードを伝って中国、朝鮮へと伝わっていったろう。
そもそも太陽信仰は原始信仰として仏教より先に根づいていたに違いない。

石窟庵の本尊の額には、ダイヤモンドがはめ込まれていたという(盗まれてしまって今は模造品が入っているが)。
朝の最初の光が洞窟の入口に差し込み、やがて本尊の石仏はさんぜんとバラ色に染まっていく。石仏の眉間のダイヤモンドに光が差すと、そこから反射する輝きは、遠く海からも見ることができたという。

ダイヤモンドから屈折反射した光は、前の部屋にある2体の石像の宝石にあたり、そこから反射した光はさらに本尊の肩を超えて十一面観世音の顔を照らし、仏像全体が光り輝いたという。

海からの朝日、というのも気になる。
沖縄には「ニライカナイ」の信仰がある。
ニライカナイとは、はるか遠い東の海の彼方にあるとされる異界のことであり、豊穣や生命の源であり、神界でもある。
年の初め、ニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年の終わりにまた帰っていく。
だから年の初め、つまり冬至の日になると、人々は東の海に向かって手を合わせる。
同じような信仰を新羅の人々も抱いていたのだろうか。