善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

五箇山 白川郷 冬の旅(前編)

3連休を利用して五箇山白川郷の合掌造りの里を旅してきた。

富山で法事があり、それなら帰りに五箇山に寄ろう、ついでに白川郷にも、となった。
ルートは、飛行機は冬季なので雪で欠航もあるかもしれないと陸路で行くことにし、次の通り。

[1日目]
東京─(新幹線)─越後湯沢─(ほくほく線)─富山(泊)。

[2日目]
法事は1時間ほど。お坊さんの「方便法身尊形」の話がおもしろかった。
法事のあと私服に着替え、リュックを背負って富山駅へ。
富山─(JR北陸本線・各停)─高岡─(城端線)─城端─(タクシー)─五箇山(泊)
電車は空いていた。高岡駅で買った「鰤寿し」(元祖せきの屋)と「鱒の寿し」(吉田屋鱒寿し本舗)を食べながらのローカル線の旅。
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酒は法事のときにおおやげでもらった宇奈月ビール4缶。鰤すしと鱒すしがなかなかの美味。今まで食べた中でいちばんうまかった。
城端からはバスもあるのだが、本数が少なくて、待っていたら五箇山到着は夜になってしまうとタクシーで。30分ほど乗って5010円。

雪は降っていないが五箇山は雪景色。パウダースノーで積雪は1メートル以上はあるだろう。
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あまりに雪が真っ白で、まるでキャンバスみたいなので、人形(ひとがた)をつくってみる。
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宿は相倉(あいのくら)集落の「民宿・与茂四郎」。建物は、築200年と伝えられる茅葺きの切妻合掌造り。
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去年、屋根の葺き替えをしたばかりだとか。
昔は「結(ゆい)」といって、地元の住民たちが協力し合って葺き替えをしたものだが、今は合掌屋根の家は大半が森林組合の職人さんにやってもらっているという。
これも時代の流れか。

五箇山は富山の南西端、岐阜県との境に位置し、庄川沿いに点々と集落が形成されている。
ここは全国有数の豪雪地の1つ。このため、屋根は雪を落としやすいよう60度という急勾配になり、まるで人が合掌しているように見えるというので合掌造りと呼ばれるようになったという。

合掌造りの家は一見すると2階建て3階建てに見えるが、実は1階建て。60度もあるような急勾配の部分は屋根なのだ。
だから大黒柱は1階部分までで、その上に巨大な屋根を載せた構造になる。こうすると、横からの風には弱いものの、雪の重さには十分に耐えられる。山と谷のこのあたりでは強風はあまり吹かない。それで豪雪に対応した家の形ができあがった。なかなか合理的な方法といえる。
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2階以上はいわば屋根裏。そこは昔は養蚕に使われた。とすると、豪雪対策とともに、養蚕のために広い屋内空間を必要としたことが、合掌造りを生み出したともいえるかもしれない。

五箇山という名前のゆわれもおもしろい。タクシーの運転手さんが教えてくれたことだが、五箇山は「山ではなくて谷」だという。
庄川沿いの赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷の5つの谷間にある集落を「五ヶ谷間」と呼んでいて、それが「ごかやま=五箇山」になったのだとか。山の険しさではなくて谷の深さが本来の五箇山を象徴するものなのだ。

五箇山は江戸時代は煙硝づくりも行われていた。
煙硝とは鉄砲や大砲に使う火薬の原料。正確には硝酸カリウム(天然鉱物は硝石)のことで、火薬として使うときに酸化剤の働きをする。

何と昔はこの煙硝をバイオテクノロジーの技術でつくっていたという。
作り方は、合掌造りの家の床下に穴を掘り、そこに畑の土やヨモギなどの干し草、蚕の糞、人馬の尿などを混ぜて積み、糞尿中のアンモニアを土の中に含まれる硝化細菌によって硝酸イオンに酸化する。
5年ほど培養して、培養土(塩硝土)から水で抽出された液を木灰と混ぜ、平釜に移して煮ると、硝酸カリウムの純粋な結晶、つまり煙硝が得られたという。

江戸時代にここを治めた加賀藩は、隔絶された五箇山の「地の利」をたくみに利用し、この地を煙硝の密造地にした。合掌造りの床下は煙硝製造に利用され、ひそかに造られた煙硝は秘密のルート「煙硝の道」を通って、金沢へと運ばれた。密造は幕府の目を逃れて300年以上も続き、日本一良質と評された五箇山の煙硝は藩の貴重な財源になっていたという。

タクシーの運転手から聞いた次の言葉も印象に残った。
五箇山の合掌造りが今に残っているのは貧しさゆえのことだ」
つまり、人びとは貧しい暮しから抜け出せなかったから昔ながらの家に住まざるを得ず、そのままの住宅や暮しが残った。残したくて残したのではなく、結果として残ったというのだ。そうやって貧しさに耐えて生きてきたことが今になってあらためて見直されている、という。

聞いていてなるほどなと思った。
何でもかんでも新しくして、便利で簡単にするのでなく、昔からの合理的な方法に順応して生きていくことは、はたから見れば「貧しさゆえ」とうつるのだろう。実際そうかもしれない。
しかし、「貧しいから」と選択した方法とは、実は「まっとう」な生き方だったのではないか。貧しさとは、経済的には大変だっただろうが、暮らし方としては決して貧しくはない。

飛躍するかもしれないが、ブータンという国がめざす「国民総幸福」の考え方とも通じるところがありそうだ。
写真は山の中腹から見た相倉集落。手前は棚田。雪に覆われている。
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続きは、またあした。