善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

「若者たち」と佐藤忠良の言葉

日曜日にNHKBSで映画を見た。1967年製作の『若者たち』

 

監督は森川時久、脚本・山内久、出演は田中邦衛橋本功山本圭佐藤オリエ松山政路栗原小巻江守徹なんかも出ていた。モノクロだが、撮影の宮崎義勇のカメラワークがさすがにすばらしい。

 

あれからもう40年以上がたっているのか。見ていて懐かしくて懐かしくて、泣けてしまった。目をランランとして、ぶつかり合い、怒り、泣き合う若者たちの姿。今も輝いていた。

 

なかでも佐藤オリエがかわいかった。あのときたぶん20代前半だったと思う。末っ子の松山政路が大学受験の浪人生役だったから、彼女も22~23で実年齢の役だったろう。

 

懐かしく思っていたら、手じかに1冊の本があった。
『若き芸術家たちへ ねがいは「普通」』(中公文庫)
著者は佐藤忠良安野光雅
佐藤忠良佐藤オリエの父親。つい最近、3月30日に98歳で亡くなっている。

 

読み始めてとまらなくなり、一気に読んでしまった。

 

綴られている珠玉の言葉。なかなか含蓄がある。
特に「彫刻の時間性」ということ。絵画も同じかもしれないが、中でも彫刻は、その人の過去・現在・未来をいかに表現するかの「時間性」が問題になるのだという。
無性に彫刻が見たくなる本だった。

 

以下、本に出てくる彼の言葉をいくつか。

 

われわれは写実の仕事をしていますが、デスマスクみたいに石膏で人の顔から型を抜けばいちばんその人に似るように思えます。しかしかえって気持ちの悪いものしかできない。そこなんですよ。寸法は合っていても、その人の顔じゃなくなる。

 

彫刻は演劇とか音楽とか文学と違って、芸術の中でいちばん時間性が奪われている。文学ならたとえば1ページから300ページの間で表現する。演劇なども1時間なり2時間の中で、意味がはっきりしてくる。でも、彫刻は彫刻そのもの、動かぬ顔が1つ、人体が1つあるだけです。
かっこいい言い方をすると、人の顔をつくるときは、その人の怒りや喜びや過ごしてきた時間、過去と現在と未来までも、時間性を粘土の中にぶち込もうとする。それが彫刻家の苦しさだと思う。

 

木は自然と戦っていながら、ずるさがない。根っこはどんなに切ない思いをして石抱えて、上を支えているか。

 

生物であることを忘れちゃいけない。今、学校では若い人たちに向かって「失敗しないように」と教える。でも現実は何事も「心配し、やり直して」の繰り返し。だから続けられるんです。

 

(芸術とは)内にしっかり内蔵して、能の表現のように耐えて、それでも外へにじみ出て行く。大変な修練を積み重ねてじっと耐えて初めて表現される。

 

(作品をまとめるとか、彫刻に行かそうということでデッサンをなさるのですね、の質問に)
まあそうです。しかし彫刻に行かそうというより、栄養を蓄積するようなことなんですよ。

 

美術大学に新しい学生を迎えると、物に触れてこなかったなあということがよくわかります。彫刻は、我々の祖先が腰蓑1つで木をたたき、粘土を練ってきたのと、やっていることはほとんど変わらない。背広なんかを着ているだけで、結局は体をいじめて、体に覚えさせて、体で表現していく。・・・だんだん人間が、生物が本来持っているはずの感覚をなくしてきていることが、本当に心配です。

 

彼はかつて東京造形大学で教授をしていたという。もうちょっと若ければ(いやもっともっと若ければ)、こっそり紛れ込んで講義を受けたかったなー。