善福寺公園めぐり

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トルコ15日間の旅 その2

トルコの旅2日目は6月22日朝、アンカラのホテルを出発してカッパドキアをめざす。
途中、ヒッタイトの遺跡を見学。今回の旅で楽しみにしていた1つである。

ヒッタイトアナトリア(現在のトルコ)に興り、BC1650~1200年ごろ西アジアを支配したインド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人の国。
西アジアに最初に鉄器をもたらした民族とされる。BC13世紀には古代エジプト王国と互角に戦うまでに発展。戦いのすえにエジプトのラムセス2世との間で講和条約を締結し、最初の国家間の講和条約といわれている。
しかし、BC1200年ごろ、「海の民」とかいわれる勢力の侵入を受けて滅亡したといわれるが、その後、ヒッタイトが持っていた鉄器製造技術は西アジアから東地中海一帯へと広がり、青銅器時代から鉄器時代への移行を促したという。

最初に訪れたのはヒッタイトの首都であるハットゥシャ。
今は見る影もなく、廃墟となっている。
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往時は城壁に囲まれ、1万人強の人口があったのだとか。
発掘調査が進行中で、発掘済みの場所をバスで移動しながら見学。

大神殿遺跡と見られる場所には光沢のある平らな石が無傷で残っていた。グリーンストーンと呼ばれるもので、何らかの宗教行事のために使われたのだろう。
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この時代は自然信仰ないしは太陽信仰が中心だったと考えられる。とすると、この石の上で太陽神へのいけにえが捧げられるなどしたのだろうか?
想像をかきたてられる石だ。

城塞都市であったことを証明するのが、城壁の各所にある門。
その1つがライオン門と呼ばれるもので、ライオン像は城壁の外側を向いており、外敵への威嚇の役割を持っていたのだろう。
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本来は上部を巨大な石垣アーチ壁に取り囲まれたトンネル状の強固な門だったという。
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王の門。
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最初、門に描かれたレリーフヒッタイト王ではないかというので「王の門」と名づけられたが、のちに王ではなく「戦いの神」であることが判明しているという。

ハットゥシャのあとは、ヒッタイトの「祈りの聖所」であるヤズルカヤへ。

途中に見た花。
旅行中、どこへ行っても咲いていた。
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巨大な岩に囲まれた通路と、その前面にある祭殿の跡。
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かつてヒッタイト人たちは、ここで神との交信を行ったのだろうか?
ヤズルカヤとは「文字の刻まれた岩」という意味があるそうで、その名の通り、通路を挟んだ岩には見事なレリーフが刻まれている。

十二神行列のレリーフ
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シャルマ神と少年の姿の王。
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ここにたたずんでいると、時空を超えて3000年前にさかのぼった気分になってくる。

夕方、奇岩で有名なカッパドキアに到着。
カッパドキアの奇岩の発生は約1100万年前に始まったとされる火山活動にさかのぼり、噴火による大量の溶岩や灰が堆積して100~200mほどになる凝灰岩の地層をつくった。その地層は何万年もの長い年月にわたって雨水や風などによってけずり取られていき、キノコの形をしたようなユニークな景観が生まれた。

不思議な形をした岩の中につくられたのが洞窟の家だ。BC3000年ごろからすでに、人びとは岩をくり抜いて住居とし、洞窟の家で暮らしてきた。
その1つ、アドナンさんのお宅を訪問した。
13世紀までは教会だった場所で、ここに200年前から住んでいて、5代目になるという。
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居間には手織りの絨毯が敷き詰められていた。
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織りの途中の織り機。各家々では、その家の娘が嫁入りのために自分で絨毯を織るしきたりという。
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台所。食器棚がきれいに壁におさまっていた。
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天井は手で掘った跡が生々しい。
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宿泊は洞窟ホテルのギョレメカヤホテル。
夜になると月に照らされていた。
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