有楽町駅近くの映画館「ヒューマントラストシネマ有楽町」でピエル・パオロ・パゾリーニ(1922‐1975年)の映画を観る。
パゾリーニは映画監督・脚本家・詩人・作家・思想家などとして活躍したイタリアの異才といわれた人。今年は生誕100年というのでそれを記念して「パゾリーニ・フィルム・スペシャーレ1&2」として彼の監督作品「テオレマ」と「王女メディア」がリバイバル上映されていたので、30分の休みを入れて2本を続けて観る。
50年以上前の映画だが、今も色あせない、どころか今こそ輝きを放つ味わい深い2本の映画だった。
まずは「テオレマ 4Kスキャン版」。
1968年の作品。
原案・監督・脚本ピエル・パオロ・パゾリーニ、音楽エンニオ・モリコーネ、出演テレンス・スタンプ、シルヴァーナ・マンガーノ、アンヌ・ヴィアゼムスキーほか。
オリジナルネガからの4Kスキャンによる修復版での公開だが、実際に上映されたのは4K素材から制作された2Kマスター版という。
北イタリアの大都市ミラノ郊外の大邸宅に暮らす裕福な一家の前に、ある日突然見知らぬ美しい青年(テレンス・スタンプ)が現れる。
父親は多くの労働者を抱える大工場の持ち主。その夫に寄りそう美しい妻と無邪気な息子と娘、そして女中。夫婦も子どもも女中も、たちまち青年の虜になり、身を任せてしまうが、やがて青年が去っていくと家族は崩壊の道をたどっていく・・・。
何とも不思議な映画だった。
トルストイの小説なんかを読む青年の気高さ?、あるいはこの映画のとき29歳だったイギリスの俳優テレンス・スタンプが演じる青年の性的魅力にとりつかれたのか、彼が現れて一緒に暮らすうちにブルジョアの穏やかな生活はかき乱され、彼が去っていくと娘はすぐに死んでしまい、淑女然としていた母はセックス中毒となって若い男を漁るようになり、工場主の父はミラノ駅の公衆の面前で全裸になって火山灰大地をさまよい歩く。
この映画のテーマはどうやらキリスト教的意味合いが強いようで、かつて映画評論家の岩崎昶は「朝日ジャーナル」の映画評の中で「現代を神話化してみせようとしている」と述べていた。
題名の「テオレマ」とは、「定理・定式」という意味だそうだ。
テレンス・スタンプ演じる青年とは一体何者なのか?
パゾリーニは、あの訪問者は「神」の現代における「化身」だといっているという。その一方でパゾリーニはまた、青年は「神」かもしれないが、ただの「天使」かもしれないし、「悪魔」かもしれない、ともいっているという。
ブルジョワ家族はみんなおかしくなってしまう中で、同じように青年に心かき乱され身を任した女中だけは救われて、ふるさとの村に帰っていって神聖を帯び、聖女となって昇天していく。ところが、昇天して中空にいたはずの彼女はまた地上に降りてきて自ら地中に埋もれてしまう。とすると、青年は「悪魔」だったのか?
女中が地中に埋もれるとき、シャベルで土をかけていた年老いた農婦を演じたのはパゾリーニの母スザンナ(元教師で芸術家気質だったらしい)。また、ブルジョアの娘を演じたアンヌ・ヴィアゼムスキーはこのときジャン=リュック・ゴダールの妻だった(のちに離婚)。
続いて観たのは「王女メディア」。
1969年の作品で、上映されたのはオリジナルネガからの2K修復版。
監督・脚本ピエル・パオロ・パゾリーニ、出演マリア・カラス、ジュゼッペ・ジェンティーレ、マッシモ・ジロッティほか。
イオルコス国王の遺児イアソンは、父の王位を奪った叔父ペリアスに王位返還を求める。ペリアスは王位を返す条件として、未開の国コルキスにある「金の羊皮」を手に入れるよう求める。旅に出たイアソンは、コルキス国王の娘メディアの心を射止め、金の羊皮を持ち帰る。しかし、王位返還の約束は反故にされ、イアソンはメディアとともに隣国コリントスへ向かう。そこで国王に見込まれたイアソンはメディアを捨てて国王の娘と婚約してしまう。裏切られたメディアは復讐を決意する・・・。
20世紀を代表するソプラノ歌手マリア・カラスが出演した唯一の長編映画であり、彼女がメディアを演じるというので、あの美声がたっぷり聴けると期待して観にいったのだが、何と、彼女は歌を歌ってない。それだけでなくセリフも吹き替え。
メディアの声はリータ・サヴァニョーネという声優。クラウディア・カルディナーレやソフィア・ローレンなどの声も担当していたイタリアを代表する声優という。
録音技術が十分ではなかった1960年代ぐらいまでは、イタリアでは映画の撮影では音声は録音せずに、あとで音楽とセリフを足すのが普通だったという。だから昔の映画のフェリーニの「道」(1954年)にしても、アメリカ人俳優のアンソニー・クインとリチャード・ベイスハートは英語で撮影し、あとから別の声優がイタリア語を吹き込んだんだそうだ。
本作でも、ほとんどが野外でのロケだったからなおさら映像と一緒に録音するのは難しかったのだろう。
歌を歌わないになぜマリア・カラスがメディアを演じたかというと、それは映画を見れば歴然としていて、あの存在感であり、美貌であり(とくに美しい横顔)、何といっても目の力、目力だ。
一切の映画のオファーを断り続けていたカラスだったが、「この映画だけは断れない」と出演を承諾した理由は、彼女がパゾリーニに夢中だったからといわれている。
また、メディアの夫となるイアソンを演じるのは、三段跳びの元世界記録保持者でメキシコ・オリンピック銅メダルの陸上競技選手ジュゼッペ・ジェンティーレ。このキャスティングはマリア・カラスの希望によるものという。
かなり濃厚なラブシーンがあるから、彼女が気に入った人にやらせたかったのだろう。
呪術的世界観を表現するためか、未開の国コルキスの描き方とか生贄を捧げる儀式はかなり異様で、奇景で知られるカッパドキアで撮影が行われている。
音楽も呪術姓を出すためか、日本の琵琶の音色や日本語の声、それにチベット仏教の音楽で管の長い楽器「ラグドゥン」によるブォォォーン、ブォォォーンと鳴り響く音が響きわたっていた。
メディアは夫イアソンに裏切られ、その復讐のためイアソンの妻となる王女を殺し、2人の間に生まれた子どもまでも殺してしまうが、その前に子どもたちを寝かせるため子守歌のように流れていたのは、琵琶法師が奏でる「平家物語」だった。日本語で「生者必滅(しょうじゃひつめつ)・・・理(ことわり)なり」と歌っていた。
たしかに映画とぴったりの内容だし(パゾリーニが日本語を理解していたかどうかはわからないが)、眠くなるような歌というか語りであるのは間違いない。
メディアが王女を殺す場面は、同じシーンが2度繰り返される。
最初のシーンでは、メディアは美しく飾られた花嫁衣装を王女に贈るが、王女がそれを着た途端、花嫁衣装は紅蓮の炎と化し、王女を助けようとした父の王もろともに焼き殺されてしまう。
次に同じようなシーンが繰り返され、メディアが花嫁衣装を贈ってそれを王女が着るまでは同じ。そのあとが違っていて、花嫁衣装を着た王女は崖の上まで駆け上り、そこから身を投げて死んでしまう。助けようとした父の王はそれを見て娘を哀れむ表情を一瞬して、自らも身を投げて死ぬ。
2つのシーンを対比させることで、パゾリーニは何をいいたかったのか。
最初のシーンは明らかにメディアによる親子殺しだが、あとのシーンは娘は呪われたようにして身を投げるが父親は自らの意志で身を投げている。
最初のはメディアが夢想したシーンであり、次のは実際のシーンだといいたかったのか。
身投げする娘を見る王の目は実に慈愛にあふれていた。愛の深さゆえに自分の父を裏切り弟を殺してしまったメディアは、それゆえに復讐のため自分の子どもまでも手にかけた悪女、魔女とされるが、そこにパゾリーニは慈愛の目をした国王を対比させることで、物語の悲劇性を際立たせようとしたのだろうか。
ピエル・パオロ・パゾリーニは1922年3月5日、イタリアのボローニャの生まれ。7歳で詩作を始め、飛び級でボローニャ大学文学部に進学し卒業。フェデリコ・フェリーニ監督の「カリビアの夜」(57年)、「甘い生活」(60年)など数多くの脚本(共同脚本も含む)を執筆。61年「アッカトーネ」で映画監督デビューし、「マタイによる福音書」を映画化した「奇跡の丘」(64年)はヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、米アカデミー賞でも3部門ノミネートを果たす。「デカメロン」(71年、ベルリン映画祭銀熊賞受賞)、「カンタベリー物語」(72年、同映画祭金熊賞受賞)、「アラビアンナイト」(74年、カンヌ映画祭審査員大賞受賞)で高い評価を得る。
75年春に「ソドムの市」を撮影するが、イタリアのファシズムを批判する内容だったため、ネオファシスト勢力からの強い反発の声が上がったという。撮影終了直後の同年11月2日未明、ローマ郊外のオスティア海岸で他殺体となって発見される。享年53。
「ソドムの市」に出演した17歳の少年が容疑者として出頭し、「同性愛者であったパゾリーニに性的な悪戯をされ、正当防衛として殺害して死体を遺棄した」と証言。禁錮9年の判決がいい渡され、刑に服した。
ところが2005年、当時少年だったその男がイタリアのドキュメンタリー番組で「パゾリーニはファシトたちに殺害された。自分は家族に危害を加えると脅され、偽の自首を強要された」と新たに証言した。再捜査が行われることになったが、真相はいまだに不明という。