善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

電気は誰のものか 電気の事件史

田中聡『電気は誰のものか 電気の事件史』(晶文社)を読む。

おそらく筆者は本書をまとめながら、2011年の東京電力福島第一原発の事故のことが終始頭から離れなかったのだろう。
「電気は誰のものか?」と問いかけながら、明治から戦前までに起こった「電気」をめぐるさまざまな事件について考察している。

たとえば、長野県の赤穂村(現駒ヶ根市)で起こった「赤穂騒擾事件」。
村をあげて村営の発電所を作ろうと夢みたが、時の権力と結託した電力会社に拒まれ、怒った村人が反対派の家を焼き討ちにした。
他にも、独占的事業にあぐらをかいて一方的に料金を値上げしようとする電力会社に対抗して、電気料金値下げを求める電灯争議が全国各地で吹き荒れた。
すでに明治の時代から、電力事業は巨大な利権となり、政府や権力政党と強く深く結びついていたことがよくわかる。

その一方で、昔の庶民の電気に対する考え方からは学ばされるものがある。

当時は水力発電が主流だった。そこで、ある農民は次のような意味のことを語っているのだ。
「日本の電力は山紫水明の国における山と川との間に流れる水の力である。それなのに政府と電気事業家どもが結託して自然の力を掠奪するなど許せるものではない」
つまり、電気とは「自然の恵み」なのであり、本来が公共性を持っており、共有されるものである、というのだ。

そこには、自然観にもとづく公共性の概念がある。
そういえば、水力のあとの石炭、石油にしてもやはり自然からの恵みであるには変わりない。しかし、原発は果たしてどうなのか?

「自然」を忘れつつある今の時代のわれわれが学ぶべきことは多い。

戦前、近衛文麿に請われて民間から商工大臣になった小林一三が、戦争に突き進むため電力も含めてナチス式の統制経済を実現させようと旗振り役をしていた商工次官の岸信介(安倍首相のおじいちゃん)とはことごとく意見が合わず、ついには岸を次官辞任に追い込んだ話はおもしろかった。
しかし、小林はわずか8カ月で大臣を辞任。やがて岸は復活し、商工大臣となって戦争開始時の重要閣僚となる。それでも、小林のおかげで国家統制の強化を多少は足踏みさせた、とはいえるのだろうか。