善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

ヘッセ シッダルタ

ヘルマン・へッセ『シッダルタ』(手塚富雄訳、岩波文庫)を読む。
ヘッセを読むのは大昔の若いころに『車輪の下』を読んで以来。

『シッダルタ』は1919年に第1部が発表され、1922年(作者45歳のとき)に完成、出版された。日本語訳も1953年に角川文庫版で出ているが、2011年に新訳が出版された。

最初、本書を手にしたとき、仏教の開祖・ゴータマ・シッダルタが開眼してゴータマ・ブッダになる話かと思ったら、まるで違って純粋なフィクションであり、同じ名前のシッダルタという男の遍歴の物語。

ブッダ同様、幼少時から非常に頭がよく、さらに真理を求めて友ゴヴィンダとともに苦行の旅に出る。
しかし、シッダルタは本物のブッダにも出会うが、ブッダとも、ブッダに帰依することにしたゴヴィンダとも別れ、ふたたび旅に出る。
やがてシッダルタは遊女カマラと出会い、彼女のもとで暮らすようになって遊蕩にはまっていく。ビジネスにも手を染める。
だが、それにも空しさを感じた彼は、カマラのもとを去り、放浪の旅へ。
長い年月がたったある日、河の渡し守に会い、そこで渡し守として暮らしながら「悟り」に近い状態に至る。

年老いたシッダルタが知ったのが「河の神秘」だった。

ヘッセはこう書いている。

彼(シッダルタ)は見た、この水は流れ流れ、絶えず流れている、しかも常にそこにある。常に、いかなるときも同じ存在であり、しかも刻々に新しいのだ。おお、このことをしっかりと掴み、しっかりと理解できたら! 

まるで「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の鴨長明の『方丈記』のような無常観がそこにある気がする。

鴨長明の無常観とは、無情な世の中をただ絶望するのではなく、その現実を受けいれながらも、自分らしく、ありのままに生きることの大切さを説いている。
ヘッセも同じようなことを考えていたのであろうか。

シッダルタを悟りの境地に導いた河の渡し守、ヴァズデーヴァの次の言葉が印象深い。

「あなた(シッダルダ)の言いたいのはこうでしょう──河は河の至る所で同時に存在する、源においても河口においても、滝においても、渡し場においても、瀬においても、海においても、山においても。至る所で同時に存在する。そして河はただ現在があるばかりで、過去の陰もなく、未来の影もない」

その言葉を受けてシッダルタはいう。

何ものも過去に在ったのではなく、何ものも未来に在るのではない。いっさいは現在に在るのだ。