善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

御当家七代お祟り申す 半次捕物帖

けさの善福寺公園は晴れ。はじめ秋の気配を感じたが、やはり残暑厳しい感じ。

きのうも見たが、上池の杭の上あたりにカワセミが1羽。しかし、あまりに遠すぎて豆粒ほど。
ラジオ体操をしていると、対岸の杭の上にカワセミが1羽。すると、もう1羽が近くに止まる。
しばらくジッとしていたが、やがてあっちこっちと低空飛行を繰り返し、目の前を通りすぎていく。

佐藤雅美の『半次捕物帖』シリーズ最新作、『御当家七代お祟り申す』を読む。

江戸・新材木町の岡っ引き半次が活躍する捕物帖。といっても、十手を振り回したり、投げ銭をして悪いヤツを懲らしめるとかいった派手さ、痛快さはない。痛快さはないが勉強になる。

幕末の経済問題をテーマにした『大君の通貨』で新田次郎文学賞を、公事訴訟の一件を描いた『恵比寿屋喜兵衛手控え』で直木賞を受賞した作家だけに、歴史的な題材を経済面から考証した歴史経済分野の作品には定評があるし、緻密な時代考証による社会制度や風俗の描写が得意。

『半次捕物帖』シリーズでも、従来の捕物帖と大きく違うのは、江戸の岡っ引きがどうやって生計を立てていたかの経済的側面をリアルに描いていること。

主人公の半次が毎日せっせとやっているのが「引合(ひきあい)を抜く交渉」である。
日本国語大辞典』によると、「引合」とは、「訴訟事件の関係者として法廷に召還され、審理および判決の材料を提供すること」とあり、「引合抜」とは、「江戸時代、目明かしなどが刑事事件の下調べを行うとき、事件にかかわりのある者から金銭を受け取り、その事件から除いてやること」とある。

10両盗めば首が飛ぶといわれたこの時代だが、ごく少額の被害なら、示談ですますことも多かったようだ。
被害者としても、裁判ともなれば本人だけでなく町役人を同道して奉行所まで出向かなければいけないし、すると1日がかり。1日で終わらないこともある。
帰りには付き添いの町役人に幾ばくかの謝礼とか接待もしなくてはいけない。それがわずらわしいというので、事件を担当した岡っ引きに相応の対価を支払い、何もなかったことにしてもらう。これが引合を抜く。

引合茶屋というのがあって、もともとは奉行所に出かける前に、事件の関係者の下調べを行う場所だが、岡っ引きは毎朝、八丁堀近くにある引合茶屋に集まっては交渉し、事件をなかったことにして、いくらかをもらう。

岡っ引きは奉行所の役人である同心の手足となって働いているが、単なる手先で、公務員ではなく、給料が出るわけでもない。引合を抜いて得るカネが、岡っ引きにとって最大の収入源だったという。

江戸の町で、庶民は夜の室内を何で照らしたのか。
相長屋の住人はロウソクなどは使わない。ふつうは油皿に細いヒモのようなものをひたし、それに火をつけて明かりをとった。そのヒモのようなものを灯心といった。綿糸などをよったものを使うこともあったが、だいたいは藺草(イグサ)、畳表にも使われる細い茎の草の芯だったという(昔は何でも自然に頼っていたんだな)。

それゆえ、藺草のことを別名、灯心草ともいう。小刀を器用に操って藺草の皮をむくと、中心にある白い芯が出てくる。「なかご」と呼ばれ、これが灯心となった。この「なかご」をむく「灯心むき」という内職仕事があったという。そんな話も「灯心をむく姉と妹」に出てくる。

今回の物語は、天才将棋少年の父親である甲州浪人・武田新之丞は何だか怪しいというところから始まって、只者ではない新之丞の正体を探るため、半次は和州・郡山の柳沢領内に探索に出かけていく。
柳沢家(初代は将軍徳川綱吉の寵愛を受けて大老格として元禄時代の幕政を主導した柳沢吉保)では、「御当家七代お祟り申す」の張り紙で大騒ぎ──。このちょいとミステリじみた話を縦糸に、江戸の市井のいくつかの人情話がからむ。

江戸の目明かしが、遠く和州(大和の国)まで出かけていくなんて「ありえない」と思うかもしれないが、もともと岡っ引きの語源は、岡場所(遊廓などの風俗地帯)から引っ張ってきた者、つまり、岡場所で悪さをしていた者に仲間の情報を密告させたのが岡っ引きのはじまり。早い話が、内情に詳しい犯罪者を密偵として使うことをいった。
したがって、密偵の仕事は本来、岡っ引きの得意技だったのである。

以下はちょっとネタバレになってしまうが──。
甲州浪人・武田新之丞は、実は武田阿波と称するかつての柳沢家家老の末裔であり、藩政建て直しに貢献したのに打ち首となった先祖の敵討ちをするため、柳沢家当主にいろんな嫌がらせをする。参勤交代のたびに鉄砲を打ったり、暴れ馬をけしかけたりと、趣向を凝らして攻撃を仕掛ける。
で、話は最後に、半次の「命懸けの仲裁」となるのだが、武田阿波という人物は実際にいたらしい。

大和郡山市の著名な人物を紹介するサイトによると──。

武田阿波 
もと山東新之丞また要人ともいう。柳澤藩寄合衆として400石、享保13年(1728)柳澤保誠(里恭の兄)の推挙により家老となり、五軒屋敷に入り、藩財政の建て直しに活躍した。間もなく罪を得て同16年6月家老職を免ぜられ、同18年6月死罪となった。このとき阿波と共に処分された者は、もと寺杜奉行の一色右平番頭の水嶋図書それに阿波の妻、両人の子供など合わせて6人であった。後年この阿波達の霊を慰めるため、土地の人たちの建てた祠が五軒屋敷跡に今も残っている。

おそらく佐藤氏は大和郡山まで出かけていろいろ調べ、今回の物語の着想を得たのだろう。