善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

冲方丁『天地明察』と金王八幡宮

今話題の(2010年本屋大賞受賞)冲方丁(うぶかた・とう)著『天地明察』(角川書店)を読む。なかなか面白かった。
江戸時代前期の天文学者渋川春海(はるみ、しゅんかいとも)が、実態と合わなくなっていた日本の暦を800年ぶりに改訂する大事業に関わっていく過程を描いた歴史小説
四字熟語が盛んに出てきて難しそうだが、文章が若く、ある意味軽さもあって読みやすく、イッキに読破。わが家では今、「明察」「誤謬」「必至」が流行語に。(実は私だけ?)

渋川春海とは何ものか?
平凡社の『世界大百科事典』と『朝日日本歴史人物事典』とを読み比べると、その人となりがわかる気がする。
まずは『世界大百科事典』によると(一部略)──。

中国からの輸入暦法を、ただ機械的に計算して毎年の暦を作っていた日本において、みずから観測を行い、暦理を理解し、さらに新暦法を開発した最初の天文暦学者。姓は初め安井、のちに保井を用いたが、1702年(元禄15)より渋川を名のることを願いでて許された。

将軍家碁所4家の一つ安井家の子として生まれ、わずか14歳で父の後を継ぎ安井算哲と称して碁所に勤めた。暦学を松田順承、岡野井玄貞に、和漢の書を山崎闇斎に学んでその秀才ぶりをうたわれたことは、囲碁の素養とともに幕閣の有力者である会津保科正之水戸光圀らの知遇を得る助けとなり、のちの改暦の成功を招いた。

当時用いられていた宣明暦法は800余年も前に唐で採用された暦法で、日月食の予報法も粗雑で、さらに暦の季節は天の運行に2日も遅れており改暦の必要は迫っていた。春海は元の授時暦をもって宣明暦に変えるよう進言したが、授時暦による日食予報が失敗したため改暦は中止された。

春海は研究を重ね授時暦を日本の地にあうように改良し、これを大和暦法と名付け、その採用を請い、1684年(貞享1)11月、ついにこの案が採択され貞享暦として翌年から施行された。

この功績により春海は従来の家禄30石の碁所を免ぜられ、100俵(采地の100石に当たる)を受けて天文職に任ぜられ、のちには250俵まで加俸された。春海は古来よりの暦日を復元した《日本長暦》や《天文瓊統(けいとう)》その他の著述とともに天球儀や渾天(こんてん)儀、星図などの製作も行っている。(内田正男)

一方『朝日日本歴史人物事典』は(一部略)──。

江戸中期の天文暦学者。幕府碁方安井算哲(初代)の子として京都に生まれた。父の死に当たり、襲名して家職を継いで碁所に勤め、2代目算哲と称している。のち保井、さらに渋川と姓を改める。
日本では古来中国の暦を採用していたが、初めて日本人の手になる独自の暦法(貞享暦)を作った人物として著名。その功により貞享1(1684)年初の天文方となる。

独自といっても大したことはなく、大部分は元の授時暦の引き写しである。太陽や月の中心差などに多少の手直しを行ったが、はたして改良か改悪かいちがいにいえない。その手直しも、あまり理論的根拠のあるものではない。

授時暦では中心差を各象限ごとに3次の代数式で表現するが、貞享暦も授時暦を踏襲し、ただ係数だけ変えて、象限のつなぎ目のカーブを滑らかにしただけである。それでも観測に根拠を持つ中心差の最大値は、授時暦よりも現在値に近いものをつかっているから、改良であったといえる。

あえて独自なものといえば、日食の予報のときに、中国と日本の経度差を考慮に入れたことだけであろう。中国と日本では経度、緯度が違うから、当然授時暦のやり方を修正しなければならない。春海は経度についてはそれだけ時間をずらして修正したが、緯度についてはそれも影響するといいながらも、修正の仕方が分からなかった。

理論的には必ずしも一流ではなかった渋川春海が、本邦最初の改暦を実現できたのは、なぜか。そもそも改暦というものは科学上の問題よりも政治的問題である。特に本邦最初ということになると、慣例にないからという理由だけで反対される。これまで中国の暦を採用していたのだから、そのままでよい、という中国派の儒者のいうことを押さえねばならない。

彼が幕府の碁所に勤める父のあとを継いで碁所に勤め、幕府の要人を知っており、また京都の陰陽頭安倍泰福から土御門神道その他の流の神道を学び、朝廷とも近かった、という人間関係をフルに使って、初めて達成された政治的事業である。並みの学者でできることではない。(中山茂)

小説の冒頭で、渋谷・金王八幡宮の「算額奉納」の話が出てくる。
春海はそこで、なかなか魅力的な女性「えん」と出会うのだが、算額とは、神社や仏閣に奉納した数学の絵馬のこと。

もともとは数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈願して奉納されたといわれるが、そのうち、人の集まる神社仏閣を発表の場とし、問題だけを書いて解答を付けないで奉納する者も現われ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことが行われるようになったという。こうした算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化だとか。
「明治になり洋算の導入を容易にしたのも算額を奉納する風習が貢献した」と説く人もいる。
へえ~、江戸時代にこんな風習があったとは?

今度の散歩は金王八幡宮あたりまで行ってみようか。