善福寺公園めぐり

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免疫の無駄

クチナシの花が咲いている。秋のキンモクセイ金木犀),早春のジンチョウゲ沈丁花)、そして初夏のクチナシ(梔)。近づくといい香りがする。

「新・免疫の不思議」(谷口克著・岩波書店)を読む。谷口氏は免疫学者で、第4のリンパ球といわれるNKT細胞の発見者。

同書によると、ヒトのリンパ球は合計すると1キログラムもあり、1兆個にのぼる浮遊細胞の集団だという。神経細胞のように連絡しあう繊維もないのに、1兆個もの細胞中からどのようにして特定の相手を見つけだしてコミュニケーションし、機能するのであろうか。会話するときのリンパ球の言葉はどのようなものであろうか?と問う。

この本を読んでナルホドと思ったのは、免疫における“無駄の美学”である。

免疫というのは一見、合目的性のある精巧なメカニズムからなっているようだが、「実はまったく無目的で、合理性のない、無駄の多い機構からできあがっている」のだという。

ヒトを形づくる遺伝子は4万個しかない。それなのに、免疫系が異物(抗原)を識別する能力は1兆種類に及ぶという。計算上、未知の物質を含めて、1億年後に出現する新たな病原体にも対処できる能力を持っている。

ということは、免疫の多くは一生のうちでほとんど使われることなく終わる。では、なぜこのような無駄の多い機構を生物は採用したのか?

同書によると、「免疫系本来の『抗原』は自己の抗原受容体それ自身であり、免疫系というのは内側に向けられた反応系」なんだそうだ。

だから、外から侵入した抗原(病原菌)は、たまたま内部抗原である抗原受容体と同じ抗原性をもつめに、偶然に反応したにすぎない。

というのも、免疫とは「ウイルスや細菌などから人間を守る防御システム」なのではなくて、本来は「自己と非自己とを区別し、非自己を排除するための仕組み」。だからヘタをすれば自分自身をも攻撃してしまう。自己免疫疾患やアレルギーなどはその例であろう。

免疫が自己を攻撃しないメカニズムはどうなっているか。
骨髄で生まれた未熟なT細胞は、胸腺に運ばれると様々な教育・訓練を受けて成熟した免疫細胞となるが、そのままだと多くのT細胞は自己に反応するT細胞(自己反応性T細胞)となってしまう。つまり将来自分を攻撃する「危険分子」となる。

それでは困るというので、せっかく育てられたT細胞の95%以上は、働きだす前に胸腺で死滅してしまう。胸腺によって消滅させられるのではなく、自ら死を選ぶアポトーシス(細胞の自殺)による。
それだったら最初から育てる必要なんてなかったのに、と思ってしまうが、“無駄の美学”が存在しているのが生命の営みなのだろう。
あるいは、無駄があるからこそ、本来ヒトを守ることなんて考えてない免疫が結果としてヒトを守ってくれているのかもしれない。

同書も次のように述べる。
「(免疫に無駄が多いのは)生体にとって著しく経済効率の悪い話である。しかし、経済効率を追及するだけでは生命体は維持できないことを逆に物語っている。われわれは、このことに多くを学ぶべきである」

人間の社会や組織においても同じことがいえるのかもしれない。

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