善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

「ゲゲゲの女房」と紙芝居(再掲)

うっかりして、何日か前(たしか12日)の投稿を削除してしまいました。悪いのはヘンなキーを押してしまった私メの指です。申し訳ありません。
そこでもう一度あのときの文章を思い出し、再投稿することにします。
その前に、紙芝居にまつわるエピソードはきょうで終わりですが、かつての紙芝居の親方、杉浦音松のなげきに思わず涙がこぼれました。
テレビが出現し、子どもたちが外で遊ばなくなって、やがて廃れていった紙芝居。おかげで商売は上がったりになり、文なしになった音松はつぶやきます。
「紙芝居はどこへ消えちゃったのか」
「紙芝居に夢中だった子どもたちは、どこへ行っちゃったのか」
それで今週の題名は「消えた紙芝居」というわけなんですね。
以下、私が消してしまったブログの内容です。

テレビのドラマはほとんど見ないが、きょう(12日)はつい見入ってしまった。朝8時からの『ゲゲゲの女房』。妖怪漫画家・水木しげるの奥さんの物語。別に松下奈緒のファンでも、向井理のファンでもないが(しいていうならきょうは出てなかった佐々木すみ江のファン)、もちろん水木しげるの漫画のファンではある。

きょうは上條恒彦が紙芝居の親方役で登場していて、なかなかいい味を出していた。きょうの回で語られていたのは「ゲゲゲの鬼太郎」の誕生シーンだった。

もともと「鬼太郎」の前身として戦前の一時期、「墓場奇太郎」とかいう紙芝居が人気だったという。戦後、村井茂(水木しげるのこと)は神戸に住んでいたとき、紙芝居の貸元であった上条(ドラマでは杉浦音松といって日本一の紙芝居師だったとか)に「紙芝居を描かせてほしい」と頼み込む。やがて彼は紙芝居作家となり、100とか200作ぐらい紙芝居を描いたという。

子どもの小遣いを当てにした商売が紙芝居。子どもたちは物語の続きを待ち焦がれているから、毎日のように新作を描かかなければいけなかったという。しかも紙芝居はすべて手描きで、それが何人もの紙芝居師の間をまわり回っていた。

いろんな題材の紙芝居を描いて、ネタが尽きた水木は、「ホントは自分は妖怪の漫画が得意だ」と明かすと、音松は昔「墓場怪太郎」という紙芝居が人気だったことを話した。そこから生まれたのが「墓場鬼太郎」であり、やがて「ゲゲゲの鬼太郎」となる。

紙芝居はすべて手描きで、たった1つの作品があちこちに回って上演されたため、今では「墓場鬼太郎」は拍子の1枚しか残っていないという(ドラマでの話だが、ホントにそうなのかもしれない)。
ドラマを見るうち、紙芝居に夢中だった子どものころのことが眼前に広がった。

「紙芝居はどこへ消えた」「子どもたちはどこへ行った」となげく音松さんに1つだけ伝えたいことがあります。
東京は杉並区の善福寺に、ラジオぱちぱちというミニFM放送をやってるグループがあって、そこではことあるごとに、「黄金バット」(しかもドラマの通り、手描き! ただし、1作しかないけど)の紙芝居を上演していますよ。
いろんな人が何回も読んでいるから、けっこうボロボロになっているけど、読むたびに話がいろんなふうにふくらんで、子どもたちにもけっこう人気ですよ。
音松さん、今度こちらにも来て見本演技を見せてくださいね~。