善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ

劇団黒テント公演「平成派遣版 窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ」を観る(8日夜、シアターイワト)。

原作はいわずと知れた宮沢賢治。作・山元清多、演出ならびに主演・斎藤晴彦。舞台は、何もない空間にオフィスの一角らしく机とイス、レコード盤の紙が張られた真ん中の部分のような回り舞台(らしきもの)、別にこの芝居のためにあえて汚くしたわけじゃないだろうに、壁のところどころが剥げかかっていて、それが雰囲気を出している。

原作では、いつも楽長からヘタクソと叱責されていたセロ弾きのゴーシュが、夜な夜な訪れる動物たちに自分のうっぷんをぶつけたりしているうちに、動物たちからいろんなことを学び、豊かな表現を身につけていく、というような話だった。
昨日の舞台では、ゴーシュは傾きかけたカラオケ販売会社の定年間近のさえないサラリーマン(斎藤晴彦)で、深夜の居残り残業中、猫やカッコーのかわりに、出前のドンブリを下げにきたラーメン屋の青年や、ハードロッカーの夜警のバイト、巨乳の夜明けの掃除婦らとかけ合いを演じながら、仕事は依然としてちっともまともにはできないが、なぜか歌だけはうまくなって、「やろうと思えばやれたじゃないか」で幕となる。あれだけ深夜の訪問者たちに仕事のじゃまをされながら、最後のゴーシュのセリフ「おれは怒ったんじゃなかったんだ」が効いていた。

17年ぶりの再演というが、おそらく30年ぐらい前の東京の情景がよく描かれていて、特に終業間近の銭湯の様子などは、昔の貧乏青年の自分の暮しがありありと脳裏によみがえった。賢治の原作と山元の作品がフーガのように交差し合い、観る側が自分でもイメージをふくらませることができて、なかなか楽しい舞台だった。欲をいえば、もっと笑わせてほしかったが・・・。

圧巻は最後のドヴォルザーク交響曲9番「新世界より」の熱唱。できれば第1楽章から第4楽章まで、全曲聴きたかった。
もともと音楽の原点は、声であり、手をたたいたりすることであったのだろう。すると、ドヴォルザークが譜面にヴァイオリンとかフルートとかティンパニーと書いたところだって、声や手で表現することができるかもしれない。声だけのシンフォニーを聴きたいものだ。(実際やってるかもしれないが)