善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

宮城谷昌光 草原の風 下

宮城谷昌光『草原の風』下(中央公論新社)を読む。
後漢王朝を創始した光武帝(こうぶてい)・劉秀の物語。

話のスジとはあまり関係ないが、言葉、とくに漢字の持つ意味の深さを教えてくれた。
たとえば、こんな記述があった。

「拝とは、もともと地の草花をぬきとる人のかたちで、礼容のひとつとなった。その礼をおこなうということは、受ける、感謝するという気持ちを表現したことになる」

へーっと思って白川静の『字通』を開くと、「(拝の)金文の字形は華を手で抜きとる形で、草花を抜きとるのが字の原義」とある。
「草花を抜く」ということから「腰を低くする、拝む、拝する」となっていったようだ。大地への感謝、生きものへの思いやりが、「感謝」さらには「神仏に詣でる」ことにもつながっていったのだろう。

ところで小説では、光武帝の皇后となった陰麗華の話がもっと出てくるかと期待したが、あまり触れられなかったのは残念。

4世紀前半の神仙術の研究家に葛洪という人がいる。神仙術とは要するに不老不死の仙人になるための学問といったらよいか。その葛洪の著書に『神仙伝』というのがあり、そこに陰麗華にまつわる話が出てくる。

『神仙伝』によると、漢代の仙人に陰長生という人物がいて、後漢の第4代皇帝・和帝の皇后・陰氏はその曾孫だという。そして後漢書によれば、陰氏は陰麗華の兄・陰識(光武帝に仕えた武将)の曾孫だという。
ということは、ひいじいさんにあたる陰長生は陰麗華と同時代の人で、親戚か、あるいは兄弟だったかもしれない。いずににしろ同族であることは間違いない。
身内に仙人がいたというのは、光武帝後漢を興すうえでも神仙術が何らかの役割を果たしていたのではないか。
小説では何も触れていないが・・・。

『神仙伝』によれば、陰長生は富貴な出身であったが栄華を好まず、ひたすら道術修行に打ち込んだという。
馬鳴生という人物に弟子入りし、下僕みたいなことをして働いたが、馬鳴生は議論するばかりで仙術をいっこうに教えてくれない。
そうやって何十年かたつうち馬鳴生は「そなたは真に道が会得できた」と告げ、土を煮て黄金にする錬金術の方法を見せたうえで「太清神丹経」という秘伝の処方を陰長生に授け、いずこへか去っていってしまった。
陰長生はそれをもとに薬を調合すると、見事丹薬が完成した。しかし、一度に全部飲んで即座に昇天してしまうのはもったいないと、半分しか服用しなかった。
やがて陰長生は黄金10数万斤を作って(原料はただの土か?)世間の貧しい人に恵んでやり、300余歳で昇天したという。

「白髪三千丈」というが中国にはスゴイ人が多い。