善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

「21世紀の資本」を読む

トマ・ピケティ『21世紀の資本』(山形浩生、守岡桜、森本正史訳 みすず書房)を読む。

といっても経済学などまるで門外漢なので意味がわからないところも多く、そのまま読み進んだので果してどこまで理解できたのかの不安はあるが、筆者のいいたいことはだいたいわかった。

それは次の点に要約できるだろう。
まず筆者は、最初の1ページ目に本書の眼目を提示し、所得と富の格差の問題を投げかける。
「(富の分配について)本当にわかっているのはなんだろう? 19世紀にマルクスが信じていたように、私的な資本蓄積の力学により、富はますます少数者の手に集中してしまうのが必然なのだろうか? それともサイモン・クズネッツが20世紀に考えたように、成長と競争、技術進歩という均衡力のおかげで、発展の後期段階では階級間の格差が縮まり、もっと調和が高まるのだろうか?」

クズネッツはアメリカの経済学の大家で、「資本主義が発展するとやがて格差はなくなっていく」という「逆U字型仮説」を説き、ソビエト崩壊後、それが経済学の常識となっていた。

ところがピケティ氏は膨大な統計資料(3世紀にわたる20カ国以上のデータ)を分析して、格差は縮まるどころか広がっていることを明らかにした。資本主義の本質というか本性は変わっていなかったのだ。

これまでの歴史を振り返ると、格差を抑える時期があったことはあったが、それは2度の世界大戦があったゆえの例外にすぎず、その後は再び格差拡大が進んでいって、いまや深刻な事態になろうとしている。
「21世紀に入って10年以上たった現在、消えたと思われた富の格差は歴史的な最高記録に迫り、既にそれを塗り替えたかもしれない」

ピケティ氏は格差が広がる理由として、「r>g」という数式を示す。
rとは資本収益率のことで、gは経済成長率。ピケティ氏は、紀元ゼロ年から今日まで、rは常にgを上回ってきたことを明らかにした。

資本収益率とは資本を持った人が投資など資産運用で得られる利益の伸び率であり、経済成長率とは賃金の上昇等も含めて人々が働いて得る利益の伸び率。
資本主義経済はまさにr>gの社会であり、これを放っておけば格差による不平等は広がる一方だし、ますます豊かになった富裕層は子孫に資産を残すので、やがて世襲資本主義が進んでいくと警鐘を鳴らす。

ではどうしたらいいかというと、グローバルな累進課税、それも所得税累進課税だけでなく資本への累進課税の強化こそが必要だ、とピケティ氏は指摘する。

本書では、累進課税を民主主義の観点から捉えているのも注目に値する。
「果てしない格差スパイラルを避け、蓄積の動学に対するコントロールを再確立するための理想的な手法は、資本に対する世界的な累進課税だ。こうした税金はまた、別の長所も持っている。富を民主的な検分にさらすというものだ」

ただ、このへんの論述はちょっと言葉足らずで、もうちょっと語ってもらいたかった(あるいは訳の問題か?)。
つまり、格差を是正し不平等をなくすということは単に貧しい者の救済なのではなく、民主主義と社会正義の実現、持てる者・持たざる者も含めたすべての人々が幸福になる社会の実現にほかならないはずなのだ。

もともと富の格差、不平等を改めるための根本的な解決法を提示したのはマルクスエンゲルスだった。ピケティ氏は言う。
「生産手段の私有を禁止することで、ソヴィエトの実験は同時に資本に対するあらゆる民間収益を廃止した。・・・資本収益率がゼロになったことで、人はついに鎖を投げ捨て、蓄積した富というくびきも捨て去ったのだった。・・・r>gという不等式は昔の悪夢にすぎなくなった。

・・・でもこうした全体主義実験につかまってしまった人々には不幸なことだが、ここには問題がひとつあった。
私有財産市場経済は、自分の労働力しか売るモノがない人々に対する資本の支配を確実にするだけが役割ではなかったということだ。それは何百万もの個人の行動を調整するのに便利な役割を果たすし、それがないとなかなかやっていけないのだ」

「(これに対して、ピケティ氏が主張する)資本税は、民間資本とその収益という永遠の問題に対する対応としてもっとも非暴力的で、もっと効率的だ。個人の富に対する累進的な課税は、社会全体の利益の名の下に、資本主義に対するコントロールを取り戻す一方で、私有財産と競争の力を活用する」

ソビエトの失敗が私有財産市場経済を禁止したことにあるとするピケティ氏は、社会主義国でありながら私有財産市場経済を認める中国には、多少の期待もしているようで、そのへんが興味深かった。