善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

菊之助の礼儀

長谷部浩菊之助の礼儀』(新潮社)を読む。

筆者は東京芸大教授で演劇評論家。もともと現代演劇を専門に批評してきたが、90年代になって歌舞伎に目を向けるようになって、阪東三津五郎の聞書きなどを出版。十数年前に尾上菊五郎の息子、菊之助と知り合い、親しくなって菊之助から相談事をされるようになって今日に至るが、その経緯というか、交遊録というか、菊之助との“打ち明け話”をまとめたのが本書。
客席から舞台を見ているだけではわからない菊之助のホンネを窺い知ることができて興味深かった。

たとえば、若いころ(今も若いが、10代、20代のころ)の菊之助は素人が見ていても「まだまだだな~」と思える演技だった。それは本人も十分に承知していて、舞台に上るのがイヤでイヤでしょうがない時期があったという。
菊之助本人がこう言っている。
「僕の年齢からすると、今は、実力以上の役に恵まれています。役に恵まれれば、うれしいはずなのに楽しめない。その重さに押しつぶされてしまっていました。特に十代の終わりはひどかった。暗黒時代といっていいだろうと思います。惰性で舞台に立っている自分に腹が立つ。それなのにどうしても抜け出せない自分を責める時期が続いていました」
伝統の世界にいるからこその重圧だろう。それでも御曹司は耐えてがんばっていかなければいけない。今は下手でも、いつか上手くならなければいけない。それには時間、つまり経験が必要なのだろう。
菊之助自身、あるとき、「芝居ってやらされているんじゃないんだ、舞台によって生かされているんだ」と思うようになってから前向きに考えるようになったという。

それでも菊之助は苦悶している。
歌舞伎は何百年前の芝居を繰り返し上演するのがそのスタイル。1日を昼の部とか夜の部とかに分けて、3時間とか4時間の上演時間の中で、いくつもの古典演目を切れ切れに上演するのは世界の演劇の中でも歌舞伎ぐらいだという。
古典といっても古いものを古いままで演じているのではない。役者たちは常に創意工夫を凝らし、新しい型、新しい演技を創造している。
では自分はどうか、と菊之助は考える。
「今の僕に新しい型を創り出す力があるかというと、まだ、それだけの引き出しがない。それが悔しいんです」

そんな菊之助の“ナマ”の声が聞こえてくるのが本書。
伝統芸能の世界に生きる人の苦悩と喜びが伝わってきた。