善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

へるん先生の汽車旅行

芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル)を読む。

日本を世界に紹介した作家で日本研究者でもあるラフカディオ・ハーン小泉八雲)の生涯を、ハーンが鉄道でたどった旅を筆者自身が現在の鉄道でもう一度たどる形で描くノンフィクション。新しいタイプの伝記物といえよう。

「へるん先生」というのは、当時の日本人が「Heam(ハーン)」を「へるん」と読んだのが広まり、本人もそう呼ばれるのを気に入って定着したのだとか。

明治の始めのころ、欧米の先進文化を取り入れるため“お雇い外国人”を次々と迎え入れ、ハーンもその1人と思っていたが、実はハーンは数奇な運命をたどっていて、ギリシャ出身ながらイギリスで育ち、青年時代はアメリカにわたって新聞・雑誌の記者(探訪記者)となるも、ジャーナリストとしては大成したとはいえず、各地を転々として貧乏生活を送っていた。
起死回生を願い、一縷の望みを託してアメリカの出版社の特派記者として日本に渡ったのが1890年(明治23年)、ハーン40歳のとき。

しかし、特派記者の仕事はすぐにやめてしまい、日本の暮らしがいたく気に入ったものの、実際のところは日本に来たはいいが食い詰めていたという。たまたま、お雇い教師の口が見つかり、渡りに舟とばかり松江の尋常中学校の英語教師として赴任。そのころは無一文に等しい状態で、松江赴任の旅行費用にも事欠いて、1カ月分の給料を前払いしてもらうありさまだった。
しかし、お雇い外国人の給料は破格で、大臣よりも高額だったというから、いかに厚遇されたかがわかる。

ハーンは英語教師として松江、熊本と移り住み、やがて文豪、小泉八雲となって数々の名作を残すようになる。

TSUNAMI津波)」という言葉を日本から海外に初めて発信したのもハーンだったという。

以前、松江を旅行したとき、彼が住んだ家を見に行ったりしたが、ハーンは松江の人々から今もこよなく愛されているようだ。しかし、ハーンが松江に住んだのはわずか1年でしかない。それなのに今も尊敬されているというのは、よほど人間的な魅力がある人だったのだろう(日本で暮らしたのも14年にすぎず、54歳のとき狭心症で亡くなっている)。

アメリカでは成功しなくても日本で成功したというのは、何か理由があるに違いない。
欧米で生まれ育まれて培った知性・感性が、東洋的な知性・感性とうまくマッチングし、小泉八雲という新しい知性・感性を醸成したのだろうか。