善福寺公園めぐり

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剣術修行の旅日記

永井義男『剣術修行の旅日記 佐賀藩葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』(朝日新聞出版)を読む。

佐賀藩鍋島家の家臣で二刀流の遣い手が、嘉永6年(1853)9月から安政2年(1855)9月まで、およそ2年間にわたって諸国武者修行をした旅の日記をもとにまとめたもの。これがなかなかおもしろかった。

武士の名は牟田文之助高惇(たかあつ)。幕末から明治にかけて活躍した剣術家として知られているらしくて、Wikipediaでも紹介されている。
23歳で鉄人流という二刀流の免許皆伝を授けられ、24歳のとき、藩から許可を得て武者修行の旅に出て、「諸国廻歴日録」という克明な日記を残した。

筆者の永井氏は、日記の内容をウソ偽りなく紹介したというが、会話の部分は多少小説風にしたところがあって、おかげでおもしろく読めた。

驚いたのは「諸国武者修行」というと命がけの剣術修行のイメージがあるが、実際はまるで違う点。訪れた先々で「他流試合」もしているが、これも現代のイメージとは違う。

すでにこのころは竹刀が普及し、面や小手、胴といった防具も登場していて、今の剣道のやり方と変わらない。他流試合といっても一本を争う試合ではなく、打込み稽古や掛かり稽古みたいな地稽古で、1対1で試合形式の打ち合いをしても審判がいて勝ち負けをきめるわけではなく、あとで「8分2分で拙者の勝ちだったな」と自分で勝手に判断する程度のものだったらしい。

1本を争う勝負だったら、勝っても負けてもあとあと遺恨を残すこともあるだろうが、自分で「勝った」と思うだけだったら、相手もそう思っているかもしれず、稽古のあとは和気あいあい。その地の藩士と酒を酌み交わし、名所旧跡や温泉にも案内されている。

とにかく牟田文之助という人は酒豪らしくて、修行といいながら、毎晩のように浴びるほど酒を飲んでいる。まるでスポーツで汗を流したあとはビールがうまい、という感じだが、文之助は人柄もよかったのだろう、行く先々で慕われて、交遊を深めている。

それに江戸時代は各藩の文武にわたる修行の旅が盛んだったらしくて、各地に修行人が泊まる旅籠屋があって、その旅籠屋に頼めば、各地の藩校道場や、町の道場への稽古の取り次ぎもしてくれた。

文之助が踏破したのは、江戸はもちろん、北は秋田から南は九州まで現在の31都府県。
千葉周作玄武館斎藤弥九郎練兵館桃井春蔵士学館なども登場し、文之助の評価がまたおもしろかった。