善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

三浦丈典 こっそりごっそりまちをかえよう。

三浦丈典『こっそりごっそりまちをかえよう。』(彰国社
「じぶんのいえにあだ名をつけよう」や「自分がねこだったら近所のどこで昼寝するか考えてみよう」など、「まちを変える」をテーマにしたエッセー集。
筆者は1974年生まれの建築家。わかりやすい語り口で、考えるヒントをいろいろもらえる本。
気になったところをいくつか、メモ風に引用しておく。

駅前までくるまが入れるように、と車道やロータリーを無理くり通したまちはおおよそ衰退して、幹線道路に大型スーパーやチェーン店が並ぶだらしのない風景をつくってしまうし、数少なくなってきたものの、いまだに活気にあふれ人が行き交う場所というのは、くるまが入れない入り組んだ場所が多い。日本中にこれほどまでにたくさんの悪例が生まれ続けて、いまなおどうしてこういった開発が続けられるのか、全く理解できないけど、おそらく言い分としては搬出入のトラックとか、観光バスとか消防車とか、あるいはどこかとどこかを結ぶ太い道路を貫通させなくちゃいけない、とかそんなことだろう。効率とか資本とか、そういった数値化しやすいものの犠牲になって、数値化しにくい場所の豊かさはどんどん失われていく。

クラレンス・アーサー・ペリーは「近隣住区論」のなかで、こどもが歩いて通える小学校区、というのがひとつのコミュニティの大きさの指標になると説いた。それは小学校を中心とした半径400~500mの円を指していて、面積にすると0・6㎢くらい。生活に必要な基本的な機能がそのなかにひととおりそろっていれば、徒歩を中心とした豊かな生活が送れるのではないか、ということです。

野菜工場ってどうですか。・・・
でもなんとなくだめなんです、ぼくは。・・・
たとえば新鮮な甘いきゃべつをぱりっと噛みしめるとき、漠然とそのきゃべつがかつて、どこかの畑でいっぱいの太陽光をあび、雨を吸いこみ、農家の人が手をしけて四季をくぐり抜けて、いまぼくの口のなかにある、というつながりがあって、こういういま見えないけれそこにあったであろうストーリー、あるいは自然や人とのつながり方というものを、人間は栄養と一緒にからだに取り入れているように思う。

人間は有機物のかたまりで、その主要元素である炭素の総量は地球上ですでに決まっているから、そうなると地球上でなんとかくらせる人数の上限はおよそ80億人だそうだ。このままいくと、十数年でこの数値に到達してしまうらしい。これを乗り越えるにレンタルの思想が必要で、究極的にはじぶんのこの体でさえ、人生という一定期間だけ、地球から一定量の元素を借りて人体をつくり、死ねばそれを返すという感覚(が必要ではないのか)。哲学的ですらあるけれど、とても明快。

(この「レンタルの思想」というのは、惑星物理学者の松井孝典氏がすでに東大の助教授時代から主張していることで、松井氏は次のようなことをいっている。

農耕牧畜の開始をもって文明の時代が始まり、それは地球システムの物質やエネルギーの流れに影響を及ぼすようになった。地球システムに人間圏というサブシステムが付け加えられたのだ。
環境・食料・人口など、現代文明が抱える問題は全て、人類が欲望のままに人間圏を拡大させてきたために生じたのだ。
地球システムを食い潰し、悲惨な結果を招く前に「地球から材料を借りて生きる」という「レンタルの思想」の考え方に転換すべきだ。
人口が増加し、人間圏が拡大する限り、いかにリサイクルを効率化しても、人間圏に流入する物質やエネルギーは増加する一方であり、やがては限界を超える。
レンタルの思想には総量規制の概念が含まれる。

三浦氏の本に戻る。

景気がわるくなって土地が売れなくなると、多くの地主さんは、どうせ土地をあそばせておくなら、せめて固定資産税くらいは、ということで初期投資の低いコイン・パーキングをつくってしまう。そうやってまちの中心部にぽつぽつとちいさなコインパーキングが増殖していくことを、皮肉もこめて「骨粗鬆症のまち」と呼ぶらしい。必要な場所に駐車場をつくるという話ではなくて、ましてやまち並みや活気とかはまったく無関係の、社会の制度と個人の都合。そしてそういう活動の尊重が個人主義であり資本主義なのです。

まちと交通が一体となっている風景はとても豊かだ。まちが交通をつくり、交通がまちをつくる。単に地形だけでなく、くらしやライフスタイル、価値観などをいきいきと映し出すから、その場所の公共交通に触れると、その場所のなまの様子がよくわかる。

(ちなみに「公共交通こそはコミュニケーションの原点である」と当ブログの筆者もいいたい)