善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

夜の芸術家(あるいはゲージツ家)

いつも散歩している善福寺公園を舞台に、アートイベント「トロールの森」が11月3日から始まっていて、いよいよ23日が最終日。私が所属するミニFM放送局「ラジオぱちぱち」は、青空のもとでのカフェをオープンする一方、特設ステージ(実はこの舞台もアート作品なのだが)の上で、ラジオで放送している連続ラジオドラマの活劇版、「ライブ黄金バット」を上演している。3日に2回、14日にも2回上演したから、都合4回上演。23日にやるあと1回を残すのみとなった。
野外でやるお芝居って楽しいですよ(明日は天気が心配だが)。 

日曜日のきのうもメンバー宅で最終稽古をやった。その様子は↓
http://radio88.exblog.jp/

題して「決闘!善福寺池~人間とカッパとゾウをめぐる冒険」。
メンバー総出演といった感じで、出演は、正義の味方・黄金バット、悪の代表・ナゾー、善福寺池に生息するカッパ3匹、町の人々が3人、ゾウの足が3人、それに弁士、ライブ伴奏のピアニストと、総勢13人。

で、お客さんの反応はというと──。
「あまりにもばかげているのでついつい見ちゃった。また見に来よう!」
という感想が、ナンカうれしい。

考えてみれば、今を去ること10何年も前、子どもたちが学童クラブに通っていたころから(つまり子どもたちが小学校1~4年生のころから)、夏のキャンプでは肝試しや火の女神を祭るキャンプファイヤー、クリスマスのころのお楽しみ会では空中浮遊なんかを、子どもそっちのけで大人たちが真剣になってやってたし、キャンプでの夜中の宴会は大演芸大会だった。

子どもたちが学童クラブを卒業してからも、児童館や地元小学校などでのイベントがあると、見せ物小屋とか東京コミックショーなど、いろんな芸を披露したもんだ。

やっているのは、子どもたちの父親、母親。何とも芸達者が多いのだが、学童クラブの父母ということは、父も母も昼間働いているということだ。
だが、昼間働いている父や母が、夜とか土日になると集まってきて、仕事とはまるで関係ない創造性を発揮する、そこのところが大切なのではないだろうか。

労働とは本来、創造なのであり、働くことによって人は感性を磨いていく。また、労働は科学であり、芸術でもある。

ロシアの作家にチェルヌイシェフスキーという人がいて、──といってもロシア革命の前の大昔の人だが、『何をなすべきか』という小説の中で、だれもが自由を謳歌する未来のユートピアを登場させて、次のように描いている。

「畠で働いている人は、ほとんどすべて歌をうたっている。彼らはどんな仕事をしているのだろう。小麦を刈っているのだ。だがその仕事はなんと速く進んでいるのだろう。仕事がはかどるのも当然だ。彼らがうたっているのも当然だ。ほとんどすべての仕事は機械がやっているのだ。……彼らが歌をうたいながら手ばやく陽気に仕事をするのもふしぎではない」

科学技術の発達がオートメーション化を進め、その結果、未来の人間は手をおろさずに複雑な機械を操り、同時に歌をうたって仕事を楽しむようになる、と描いている。
そして、未来の人間は夜になると集まってきて、音楽を楽しんだり、ダンスを踊ったりする。

「ヴェーラ・パーヴロヴナ(現代、ということはロシア革命前の過酷な時代に生きる主人公の一人)は考える。これはこの人たちの日常の夕べの集いなんだわ。彼らは毎晩このように音楽をたのしんだり、ダンスをしたりしている。いままでにわたしはこれほど健全な楽しみを見たことがあるだろうか。でも彼らの楽しみがわたしの知らない健全さにみちているのは当然かもしれない。彼らは朝早くからたくさん働いたのだ。充分に働かなかった者は完全な楽しみを自覚するだけの神経の準備をしなかったことになる。そしていまでも、働く人たちの楽しみはわたしたちの楽しみに比べて、もっと陽気で、生き生きとして、新鮮なのだ」

未来社会ではなくても、私たちはゲ―ジツ的(芸術的とはいかないまでも)人間である。それは昼間せっせと働くことが(大した働きはしていないが)、夜の私たちをゲージツ家にしてくれるのだ。