善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

やけたトタン屋根の上の猫

けさの善福寺公園は晴れ。天高く、という感じ。
上池のジャングルジム近くの黄色い花。
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ハナセンナ(花センナ)と判明。別名「アンデスの乙女」。原産地はブラジル、アルゼンチンで、マメ科の常緑低木。昭和初期に渡来したという。
ボート乗り場近くにはきょうもカワセミ。やがて木の中に紛れ込んで行ったかと思ったら、もう姿がなかった。
帰りに美樹園公園に寄ると、ビワの花が咲いていた。
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きのうは初台の新国立劇場公演『やけたトタン屋根の上の猫』を見たあと、イッパイやろうと西荻窪駅をおり、おでん屋をめざすも10時で閉店。それならとしばしうろうろして、「晩小屋」という店に入る。たまたま店の前の看板に「白エビの唐揚げ」の文字が踊っていて、先日、吉祥寺で食べた「白エビの唐揚げ」と比べてみようとおもっただけなのだが・・・。
ビールのあと「藤村」という名のニゴリ酒などなどを飲む。(ホントはなみなみとつがれていたが、ちょっと飲んじゃったところ)
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お待ちかねの「白エビの唐揚げ」は、吉祥寺の店より白い。
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しかしプリプリ・カリカリ感は負ける。揚げ方が違うのか? 鮮度の問題もあるだろうか。
ヤキトリも頼んだが、ちょっとしょっぱい。

で、本日の本題、『やけたトタン屋根の上の猫』
ガラスの動物園』、『欲望という名の電車』と並ぶアメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムズの戯曲。今回の舞台のために常田景子が翻訳、演出は松本祐子。
キャストは寺島しのぶ北村有起哉銀粉蝶三上市朗広岡由里子、市川 勇、頼経明子、三木敏彦、木場勝己

舞台はアメリカ南部の大富豪の家。舞台装置がなかなか工夫されていて、2階の次男夫婦の部屋でドラマが進行していくのだが、1階から階段をのぼっていくと、ドアはあるが壁はない。したがって盗み聞きする役者の姿もはっきりとわかるという趣向。

一代で大農場を築き上げた一家の主(ビッグ・ダディ:木場勝己)は、体調を崩して受けた健康診断の結果、がんに侵され余命いくばくもないと判明するが、本人には健康体と知らされていた。
次男ブリック(北村有起哉)は、愛する友人の死をきっかけに酒びたりの生活を送り、妻マギー(寺島しのぶ)は、ある事件を境に失いかけている夫の愛を取り戻そうと必死だった。また、長男グーパー(三上市朗)とその妻メイ(広岡由里子)は父の病状を知って遺産相続を有利に運ぼうとしていた。
ビッグ・ダディの誕生日パーティーに集まった2組の夫婦、母親(銀粉蝶)ら、一見なごやかな家族の団欒の中から、親子、兄弟、夫婦そして家族たちの「嘘と真実」が白日のもとに曝されていく・・・・・・、と芝居のパンフにあり。

いきなりスリップ1枚になったマギーの、機関銃のような、焼けたトタン屋根の上の猫みたいなセリフが続く。たしかに昔、子どものころ、灼熱の太陽で焼けたようになったトタン屋根の上にのぼったことがあるが、真夏の砂浜を裸足で歩くみたいに足の裏がヒリヒリしてアッチッチと飛び跳ねたものだ。
自殺したスキッパーというブリックの親友(なおかつ親友以上のつきあい)とマギーを巡る三角関係から、ブリックとマギーとの間は冷め切っていて、2人には子どももいない。というよりベッドをともにすることもなく、ブリックは毎夜ソファで寝ている。
愛を求めて悲痛な叫びをあげるマギーだが、ブリックはかたくなだ。

冷えきっているのはブリックとマギーの関係だけではない、ビッグ・ダディも妻にあいそをつかし、遺産目当ての長男夫婦を信用していない。父とブリックの間にも深い溝がある。

大富豪の家の中では、欲望とウソが充満していた。家族たちの心はカラカラに乾いていた。いくら理解し合おうと口を開いても、真実の言葉は出てこない。父と子は、本当は深い愛でむすばれているはずなのだが、結局は互いに傷つけ合うだけ。

しかし、ラストのマギーとブリックのセリフに救われた気がした。
ブリックとマギーの間には子どもがいない、と欲望丸出しの長男の嫁(こちらには5人もの子どもがいる)からの嘲笑の言葉に、ブチ切れたマギーはいってしまう。
「子どもができたの!」
そして幕切れで2人っきりになったマギーとブリック。マギーが「ウソを本当にしましょう」とブリックをベッドに誘う。「本当に愛しているの」と語りかけるマギー。最後のブリックのセリフ。
「おかしいじゃないか、それが本当だとしたら」

その言葉は、今までの拒絶の言葉ではなく、妻の愛を受け入れようとするやさしい言葉に聞こえた。

木場勝己北村有起哉の激しいやりとりが見事。グイグイと舞台の中に引き込まれていく。あそこにいるのは実は観客である私であり、その私を見ているのは実は木場勝己北村有起哉であると思える瞬間。芝居とは本当はそうなのではないか。

ほかのテネシー・ウィリアムズの戯曲のように、もっと悲劇的に終わるかと思ったが、希望を持てる終わり方になった感じだったのは、寺島しのぶの演技がよかったからなのかもしれない。