善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

リビア旅行記1

10月1日出発でリビア10日間の旅に行ってきた。その感想を綴ろう。

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国旗は緑一色。リビアの街角で。

エジプトのとなり、地中海に面した北アフリカの中央に位置するリビアには、レプティス・マグナの古代遺跡、サブラータの古代遺跡、キュレネの古代遺跡、アカクス山脈の岩石芸術遺跡群、ガダメスの旧市街の5つの世界遺産がある。そのうち、キュレネの考古学遺跡をのぞく4つの世界遺産を巡り、それにプラスしてサハラ砂漠でテント泊する、というのが今回の旅。ユーラシア旅行社が主催する「リビアの神髄~サハラ砂漠、ガダメス、そして巨大遺跡~10日間」という長い名前のパックツアーである。

ブータンに行ったときに気に入って以来、パックツアーに参加するときはこの旅行社を利用していて、今回のメンバーは私を含めて13人。ほとんどが1人参加で、30代前半と見える若い人から70代の男性まで。普通のおばさん、おじさんに見えて、実はみなさん旅慣れていて、年に何度も海外に出かけているモサ(猛者)ばかり。その意味では安心できる旅だった。

聞くと見るとでは大違い、とよくいうが、まさにリビアがそうだった。

行く前は「世界から白い目で見られるテロ支援国家」「カダフィ独裁の自由のない国」というイメージしかなくて、「ま、自然を見に行くんだからどんな国だっていいや」とリビアという国自体にはあまり興味がなかった。しかし、そこに住み暮らす人々の長い歴史の集積が、その国の姿である。あらためてリビアという国を見てみると、意外と人々はおおらかで、のんびりと暮らしているように感じた。

町中にカダフィ大佐を大写しにしたポスターや看板が張ってあるが、少しもえらぶってなく、どれもにこやかで、まるで映画スターのポスターのようだ。

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博物館にあった巨大カダフィ


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カダフィの若いとき

親しみやすさは子どもと接してみるとよくわかる。ガダメスに1泊したとき、フリータイムの夕暮れどきに市内を散策したが、子どもたちはみんな明るく、「ハロー」と寄ってきて握手してくれたり、ニッコリ微笑んでくれたりした。
同じアフリカでも、ケニアのナイロビで感じた息苦しさ、重苦しさとは大違いだ。

子どもたちの明るさはどこからきているのだろう?
そもそもリビアとはどんな国か?

面積は176万㎢で日本の約4・66倍。しかし人口はわずかに629万人(2008年、世界銀行)。首都はトリポリ。人口の92%がアラブ人で、そのほかにベルベル人など。言語はアラビア語で、キリスト教徒もわずかに存在するらしいが、ほとんどがイスラム教徒。ガイドのヌリさんによると「100%イスラム教」ということだった。イスラム教の宗派はスンニ派シーア派に分かれているが、リビアは97%がスンニ派

リビアはなんといっても砂漠の国。国土の90%以上が砂漠であり、広大なサハラ砂漠が国土を覆う。

地中海に面したことで、リビアは激動の歴史をたどってきた。
リビアには新石器時代、地中海人とアフリカ人が住んでおり、古代エジプトと密接な関係にあった。やがてギリシャ人、フェニキア人、カルタゴローマ帝国の支配を受け、7世紀にアラブ人の支配下となりイスラム教が広がった。その後オスマン帝国に併合されたが、20世紀初頭にはイタリアの植民地に。

第2次世界大戦後、リビアは独立し、王国となる。ところが69年9月、カダフィ大佐(当時大尉、28歳)を中心とする陸軍若手将校が無血クーデターを起こし、共和国となった。正式名称を「大リビア・アラブ社会主義人民ジャーマヒリーヤ国」という。国旗は、世界でも珍しい緑一色。

革命政府は外国軍基地の撤去、国際石油資本の資産国有化を推し進め、今日にいたっているが、世界に類のない独自の政治理念を掲げているのが特徴だ。イスラム教の思想とリビア民族主義、それに社会主義をかけ合わせた考え方とでもいおうか、政府も議会も否定し、直接民主主義を提唱しているが、その基礎となるのは家族であり部族である。

この国に税金はなく、教育は無料、医療も無料、物価も安い。都市に住む住民には住宅も安価で提供されるという。

そればかりではない。去年からは国から国民に生活費までも支給されるようになった。4人家族の場合、3カ月ごとにドルにして4000ドルが支給されるという。1ドル83円だと33万円あまり。毎月10万円がポンと支給されるというのだから、日本の民主党政権子ども手当なんて足元にも及ばない。

その原資はいうまでもなく石油である。リビア原油の埋蔵量が世界の8番目という大産油国。それだからこそ、カダフィがわけのわからないことを何といおうと国民は平気だし、のんびり暮らしてもいられるのだろう。

一時期、アメリカから「テロ支援国家」非難され、国際社会から孤立するほどだったのが、最近は欧米との関係改善が進み、アメリカとリビアの国交も回復された。

それでも、外国人が旅行するのはいろいろと制約があり、観光で行く場合は原則としてツアーのみ。
ビザを取得するのも大変で、パスポートはアラビア語で書かれてないといけないので、まず外務省に行って名前や番号などの項目がアラビア語に翻訳されたスタンプを押してもらい、さらに自分のデータをアラビア語で記入するという手続きが必要(もっともこうした手続きはすべて旅行会社にやってもらったが)。また、なぜか両親の名前の申告も必須で、入国の際には1000ドル以上の現金の所持が求められる。ユーロでも可だが、日本円はダメ。

また、リビア国内の全行程でツアーポリスを同行させないといけない。(それは、旅行者を守るためというより、旅行者が遺跡などの盗掘や破壊をしないよう監視する目的のようだが、実際にはわれわれに同行したツアーポリスはジーパン姿のラフなかっこうで、武器を所持するわけでもなく、ただニコニコしていたが……)

一番こたえたのは酒が飲めないということ。イスラムの国の多くは酒はノーでもそれは自国民に対してのみで、観光客は自由に飲めた。ところがリビアでは観光客もダメ。

果たして1週間以上を酒なしですごせるだろうか、不安を抱きながらエミレーツ航空で成田を立ち、ドバイ経由でリビアの首都トリポリに到着したのは2日の午後1時すぎ。そこから国内線に乗り継いで砂漠の入口、セブハに向かう。
当初の計画では「どうせ時間通り飛ばないだろうから、飛行機に乗る前にトリポリの市内観光を」ということだったが、意外にも定時に飛ぶことが判明し、市内観光はナシでセブハに到着したのは午後6時すぎ。こうして旅行1日目と2日目は、飛行機での移動だけで終わった。