善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

球道恋々

木内昇の「球道恋々」(新潮社)を読む。
おもしろくて一気読み。
最近読んだ本では恩田陸の「蜜蜂と遠雷」もそれなりにおもしろかったが、ピアノという音の世界をよくもあれだけの文学にしたなー、と感嘆はしたものの、物語自体は予想通りの展開で特に読後感はなかった。
一方「球道恋々」は物語に引き込まれて最後はジンときてしまった。

明治の野球をめぐる物語。
明治39年春。昔は控え選手、今は小さな業界紙の編集長を務める銀平は突如、母校・一高野球部コーチにと請われた。
中年(といっても30代だが)にして野球熱が再燃し、周囲の嘲笑をよそに草野球ティームへ入団。
そこへ降ってきた大新聞・東京朝日の「野球害毒論運動」に銀平は仲間とともに憤然と立ち向かう。

実際にあった話を巧みに盛り込んで、一遍の痛快小説にしている。
筆致もどこか時代がかっていていい。

今でこそ高校野球の全国大会を主催している朝日新聞だが、明治44年(1911年)、野球害毒論を連載してネガティブ・キャンペーンを展開したことがある。
このとき、先頭に立ったのが新渡戸稲造(当時の一高校長)で、「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の気なし」と断じた。
ほかにも、談話を寄せた学校の校長の中には「体育としても野球は不完全なもので、主に右手で球を投げ、右手に力を入れて球を打つが故に右手のみ発達する」とか「手の甲へ強い球を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる」などと述べるものもいた。

今となってはお笑い種だが、あの当時は真剣にそう思う人がいたのだろう。
そんな偏見と戦いながらの主人公・銀平と周囲の人々のさわやかな生き方が、読んでいる者にもさわやかな気分を与えてくれる。