12月文楽公演の第二部観劇のため東京・江東区東陽町にある江東区文化センターホールへ。
平日の昼間だったが511席のホールは満席だった。
いつもなら半蔵門にある国立劇場小劇場での公演なのだが、同劇場は老朽化による建て替えのため2023年10月に閉場。しかし、建て替えの計画は今のところ宙ぶらりんのまま、都内の劇場を転々としての“放浪上演生活”を送っている。
第二部の演目は「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」のうち「熊谷桜の段」「熊谷陣屋の段」、「壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)の「阿古屋琴責の段」。
「一谷嫩軍記」を観て、あるいは浄瑠璃を聞いていつも思うのは、想像の翼を目いっぱい広げたフィクションの見事さ。
本作は、源平合戦の一ノ谷の戦いを題材とした時代物で、源氏の武将・熊谷次郎直実とその子小次郎と平敦盛をめぐる悲劇や、平忠度と源氏の武将・岡部六弥太の和歌を通した交流などを描いた作品。
「嫩(ふたば)」とは、「双葉」つまりこの2つの物語を描いていることに由来するともいわれるが、それよりむしろ、現行の舞台でもっぱら演じられる直実とまだ16歳の敦盛、それに直実の息子のやはり16歳の小次郎の物語のことであり、「嫩」は発芽して最初に出る若葉としての双葉であり、2つの若い命の意味で「嫩」としたのではないだろうか。
登場人物は熊谷直実のほか、直実の主君の源義経、直実の妻・相模、敦盛の母・藤の局ほか。
出演は、太夫/豊竹若太夫(切)ほか、三味線/鶴澤清治ほか、人形/直実・玉志、妻相模・吉田和生ほか。
直実は一ノ谷の戦いの前、義経から「(桜の木の)一枝を伐らば一指を剪(き)るべし」との布告を受ける。実はこれは「後白河院のご落胤、平敦盛を助けよ。かわりに一指(一子)、即ち自らの子を斬るべし」との内意であり、これにしたがって直実は、戦場において身代わりとして16歳の敦盛と同じ年かっこうのわが子小次郎を殺す。
義経の前に討ち取った首を差し出すと、それはわが子・小次郎の首で、義経は「まさしく敦盛の首」と頷くが、直実の妻で小次郎の母である相模はわが子の変わり果てた姿に驚愕、悲嘆にくれる。忠義のためわが子を殺めた直実は無常の思いとなり、鎧兜を脱ぎ武器を捨てて頭を丸めて出家し、「十六年も一昔。夢であったなァ」とつぶやいて旅に出る。
本作は浄瑠璃作者・並木宗輔が人形浄瑠璃(文楽)のためにつくった作品で、宝暦元年(1751年)11月に大坂豊竹座で初演。大当たりを取って、翌年には歌舞伎でも上演されるようになった。
「平家物語」を元にした作品だが、並木宗輔はまるで違う話に仕立て上げている。
史実では、少なくとも「平家物語」では、一ノ谷の戦いで敦盛は直実に討ち取られてしまっている。
能にも「敦盛」と題する作品があり、同じように一ノ谷の戦いにおける直実と敦盛を描いているが、敦盛が直実に討ち取られるのは「平家物語」を忠実になぞっていて、死んだ敦盛が亡霊となって直実の前に現れるところが能ならではの展開。
ところが、文楽では、直実が敦盛を討った話は実は身代わりだったという替え玉トリックを編み出している。たしかに日本各地に平家の落人伝説というのがあって、安徳天皇は壇の浦で水中に没して死んだのではなく実は生き延びて山中に隠れ潜んだとか、敦盛にしても実は生きていて落ち延びたという話も残っているから、まったくの荒唐無稽とはいえないのかもしれない。
だが、作者の並木宗輔はさらに手の込んだ“仕掛け”を用意していて、史実では敦盛は平清盛の弟である経盛の息子のはずだが、実は母は後白河法皇の寵愛を受けた藤の方であり、法皇のご落胤だったということにしてしまっている。高貴な血筋のお方を殺めてはならん、というわけで、直実は断腸の思い出わが子に手をかけることになる。
庶民が喜ぶ芸能が文楽なのだから、これだけ大胆に脚色すれば、観客はみんな感涙を絞り大人気は間違いなし、と作者も座元も思ったことだろう。
並木宗輔と同時代に活躍した先輩格の浄瑠璃作者・近松門左衛門は、彼の芸術論の中で「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」として「虚実皮膜」という言葉を残している。芸術とは虚構(フィクション)と事実との間の薄い皮のような境目のほんの少しの違いにあるというわけだが、事実をそのまま写し取っただけではおもしろくないし、むしろ真実味が薄れてしまうところがある。そこに多少のフィクションを混ぜ混むことによって、話はおもしろくなり、真実味もより増していくというわけなのだろう。そこに、薄い皮どころかさらに大胆にフィクションを強調すれば、エンターテインメント性がさらに増すと同時に、真実への迫り方も、よりインパクトのあるものになっていくのではないか、と並木宗輔は考えたのではないだろうか。
「十六年も一昔。夢であったなァ」とつぶやく直実の無常観に満ちたセリフも、敦盛は天皇家の血筋を引くご落胤であり、そんな高貴な方を殺すことはできず、直実は身代わりに自分の息子の命を差し出す、という虚構の上に語られる物語であるからこそ、戦争の空しさ、忠義というものの非情さがより強調され、観客たちは主人公の悲しみに同情して涙を流すのだろう。
演目の2つめは「壇浦兜軍記」の「阿古屋琴責の段」。
享保17年(1732年)9月に大坂竹本座にて人形浄瑠璃として初演され、翌年、歌舞伎にも移された。文耕堂ほかによる全五段の時代物で、近松門左衛門の「出世景清」の改作として、平家の侍大将・悪七兵衛景清を中心に描かれるが、現在もっぱら上演されるのは「阿古屋琴責の段」。
出演は、太夫/竹本錣(しころ)太夫ほか、三味線/竹澤宗助ほか、人形/遊君阿古屋・桐竹勘十郎ほか。
ちなみに悪七兵衛景清の「悪」とは猛々しく強いという意味で、悪者という意味ではない。
平家の没落後、潜伏した平家の侍大将・悪七兵衛景清の居場所を探るため、鎌倉方の秩父庄司重忠は、景清の思い人の阿古屋を問注所へ連れてきて詮議する。景清に私怨を抱く相役の岩永左衛門は手荒な拷問にかけようとするが、重忠は情と理をもって阿古屋を説得しする。それでも景清の行方は知らないと答える阿古屋。
重忠は阿古屋の証言が真実かどうかを確かめるため、三曲を演奏するよう命じる。阿古屋は重忠の思惑が分からないまま琴を弾くが、それは歌の心をわが身に重ね、景清の行方は知らぬとの答えであり、続く三味線も胡弓も見事な演奏で、阿古屋は景清との別れを悲しく切なく語るばかり。じっと聴き入っていた重忠は、景清の行方を知らないということに偽りはないと許すのだった。
見どころは、阿古屋が琴、三味線、胡弓を弾く場面。実際に三曲を弾くのは三味線の鶴澤寛太郎なのだが、人形を動かす勘十郎の至芸が光る。
これを観たさに最前列の真ん中、三曲を弾く阿古屋の真ん前に席を占めた。
阿古屋の出からしてすばらしい。髪を伊達兵庫にした、いかにも美しくも気高い花魁の登場という舞台の出方で、会場からは万雷の拍手。阿古屋の衣装も絢爛豪華だ。ボタンの花が咲く前垂れの帯の上には、2匹の蝶が比翼になって舞っていて、優雅に金糸・銀糸をたらしている。羽織っているのは秋らしくモミジと滝川が描かれた極彩色の衣装。
主遣いの勘十郎もいつになく豪華な裃の衣装。左遣い、足遣いは通常なら頭巾をかぶって黒子に徹しているのに、阿古屋だけはそういう習慣なのか、2人とも頭巾をとって顔を出した出遣い。
阿古屋の段は歌舞伎でも上演されていて、歌舞伎では実際に役者が琴、三味線、胡弓の3種類の楽器を弾くが、当代の役者では玉三郎の阿古屋が群を抜いている。
しかし、実際には弾いてないのに、弾いているように見せる人形の演技も並大抵ではないだろう。しかも、文楽の場合、左右の手を2人の人形遣いが動かすのだから呼吸を合わせないといけないし、その上で実際の演奏者ともピッタリ合わせないといけない。
最前列の真ん中、阿古屋のすぐ目の前でジッと目を凝らして見たが、三味線、人形遣いとが寸分たがわずシンクロしていて、それは見事な三曲の演奏だった。
文楽の帰りはちょうど夕食どきだったのでJR荻窪駅南口近くの「おざ」でイッパイ。
お酒は赤星ビールのあと日本酒を冷やと温燗で。
まずはお通し。
本日のお刺身の盛り合わせ。
野菜のお浸し。
シイタケ白子焼き。
レンコンのはさみ揚げ。
生シシャモの天ぷら。
酒とおいしい料理を楽しんだ。