銀座・歌舞伎座の「錦秋十月大歌舞伎」。夜の部「婦系図(おんなけいず) 本郷薬師縁日・柳橋柏家・湯島境内」「源氏物語 六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の巻」を観る。
出演は「婦系図」の早瀬主税(ちから)・仁左衛門、お蔦(つた)・玉三郎、柏家小芳・萬寿、酒井俊蔵・彌十郎ほか。「源氏物語」は六条御息所・玉三郎、光源氏・染五郎、左大臣・彌十郎、北の方・萬寿ほか。
「源氏物語」は竹柴潤一の脚本で、光源氏とその妻・葵の上、光源氏のかつての恋人・六条御息所の三者の恋愛模様を描き、愛するがゆえに嫉妬に狂い、生霊となって葵の上を苦しめる物語。
彼は2008年の新派創立120周年記念公演に主税役で客演。そのときのお蔦は波乃久里子。玉三郎のお蔦は1983年の新派公演に参加して以来だから、実に41年ぶり。歌舞伎座の舞台で2人の初共演となった。
当初は、「別れろ切れろは芸者のときに・・・」のセリフで有名な「湯島境内」だけで上演が考えられていたが、それでは観客にわからないと、仁左衛門の提案で「本郷薬師縁日」と「柳橋柏家」が前段で付け加えられたという。
小唄と清元が効果的に使われていた。歌舞伎の「雪暮夜入谷畦道」でお尋ね者の直次郎が三千歳に会いに行くときの小唄「三千歳」が流れてきて、お蔦と主税の愁嘆場に重なる。
80近い仁左衛門が主税を力演し、20代としか見えない。何という若さ。
いじらしいお蔦の玉三郎。あまりに理不尽な別れ話に、かわいそうでついついもらい泣き。
仁左衛門が提案してくれたおかげで、たしかにわかりやすくなったが、実は原作の泉鏡花作「婦系図」には「本郷薬師縁日」と「柳橋柏家」はあって芝居も原作通りなのだが、「湯島境内」の場面は原作にはない。
この場面を創作して上演したのが新派で、単行本が刊行された1908年の9月、新富座で初演。初演を見てこの場が気に入った鏡花がのちに自ら書き下ろした。
原作は、1907年(明治40年)1月1日から4月28日まで「やまと新聞」(当時東京で発行された日刊の有力紙)に連載され、翌年、前編・後編に分けて春陽堂より刊行された。
「湯島境内」では主役はお蔦・主税だが、原作の「婦系図」では、お蔦は小説の途中から登場しなくなり、主役はむしろお妙(たえ)・主税になっている。
男中心の家制度と門閥主義の犠牲となった女性たちの悲劇の物語が「婦系図」であり、お妙を慕う主税の純愛物語ともいえる。
そこであらためて「婦系図」を読み直してみた。
早瀬主税は「隼の力(はやぶさのりき)」という掏摸(スリ)だったが、ドイツ語学者で大学教授の酒井俊蔵に拾われて書生となり、更生する。
今はドイツ語学者となり翻訳で生計を立てている主税は、柳橋の芸者蔦吉(つたきち、お蔦)と内縁の夫婦になるが、酒井には内緒にしている。
一方、主税の友人に河野英吉というのがいて、河野の父親で静岡の資産家河野英臣(ひでおみ)は、娘たちを金持ち・秀才に縁づけて閨閥をつくり、名門一族としてゆくゆくは内閣を組織しようなどという壮大な野心を持っており、息子の英吉は酒井の娘お妙を見そめる。お妙は、秘せられてはいるが酒井と柳橋の芸者小芳(こよし)との間に生まれた子で、主税とは兄妹同様に育てられた。
主税は河野家の閨閥主義に怒り、お妙を河野家に与えてはならないと決心して河野家の動きを阻止しようとする。ところが、師の酒井は主税のその行為に、結構な縁談の邪魔をするとはもってのほかとばかり、門付風情が何をする、僭上だ、無礼だ、罰当たりだ、と激しい言葉で罵った上、主税とお蔦が自分には内緒で夫婦になっているのを知っていて、「学者が芸者と一緒になるなんて許さん」「俺を捨てるか、女を捨てるか」と主税にお蔦との別離を命じ、主税も泣く泣くそれに従う。
お蔦と別れた主税は、河野家の野望を打ち砕こうと静岡に向う。彼は、河野の夫人がかつて馬丁と不義をしたことをあばき、河野の娘2人を色気でもって籠絡してしまう。
中でも河野の次女・菅子(すがこ)との色模様は小説を読んでいてもドキドキする(よくもこんな艶っぽい話が新聞に載ったと思うが、鏡花の幻想的かつ美しい文章は読者を魅了したのだろう)。
が、その間に東京に残ったお蔦は病死してしまう。
主税から過去を暴かれた酒井は、みなで皆既日食を見ようと登った久能山でピストルをつきつけて主税を殺そうとするものの、それができずに妻を殺して自殺。居合わせた2人の娘も崖から身を投げて死ぬ。
その夜、お蔦の死を知らせに静岡までやってきたお妙と清水港の宿に泊まり、お妙がすやすやと眠ったのを見て、死んだお蔦の黒髪を抱きつつ、主税もまた服毒して死ぬ。
結局のところ主税は、河野一家を滅ぼして自分の師である酒井の娘お妙を守ることができたと安心する一方で、妻のお蔦が死んでしまったことで絶望して死を選んだのだろうが、心の底には、純愛からくるお妙への思慕の気持ちもあったのではないだろうか?
ちなみに主税とお蔦が内縁の夫婦になる下りは泉鏡花自身の体験にもとづいているといわれていて、1899(明治32年)年、25歳のときの出版社の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎こと17歳の伊藤すずを知った鏡花は、1903年、友人が工面してくれた金ですずを身請(みう)けし、神楽坂下の借家に同棲。しかし、6歳年上の師・尾崎紅葉は、芸妓を落籍(ひか)すなど身のほどを知らぬ、「俺を捨てるか、女を捨てるか」と激しく叱責したため、「女を捨てます」と泣いて誓った鏡花はいったんはすずを離別。半年後、紅葉が35歳の若さで病没すると、すずを正式に妻として迎え、生涯をともにすごしたという。
「婦系図」が「やまと新聞」に連載されたのは、紅葉の死から4年後のことだった。