善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

文楽「夏祭浪花鑑」 団七の見得

国立劇場5月文楽公演・第3部「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」を観る。

国立劇場の建て替えのため閉館前の「さよなら公演」の1つで、次回の8月31日からの文楽公演が57年にわたる現在の国立劇場での最終公演になるという。

「夏祭浪花鑑」は、暑い夏の大坂(現在の大阪)が舞台で、団七九郎兵衛、一寸徳兵衛(いっすんとくべえ)、釣船三婦(つりふねさぶ)という3人の侠客の義侠心とその女房たちを描く物語。

延享2年(1745年)大坂竹本座で初演された九段続きの長編世話物だが、現在は全段を上演することはまずなく、今回上演されたのも「住吉鳥居前の段」「内本町道具屋の段」「釣船三婦内の段」「長町裏の段」。

見せ場は何といっても、夏祭りの興奮が最高潮に達し、神輿で賑わう表通りとは塀ひとつ隔てた暗い路地裏での陰惨な舅(しゅうと)殺しを描く「長町裏の段」。

太夫は豊竹藤太夫、竹本織太夫、三味線・鶴澤清友、人形遣いは団七・桐竹勘十郎、義平次・吉田和生。

勘十郎ファンとしては必見の舞台なので、前から2列目の真ん中あたりで食い入るように鑑賞。

 

団七は幼いとき浮浪児だったのを三河屋義平次に拾われ、今ではその娘のお梶と所帯を持って一子をもうけ、棒手振り(行商)の魚屋となっているが、元来、義侠心が強い男。

ところが、舅の義平次は欲深い男で、金欲しさに団七の恩人である玉島兵太夫の息子磯之丞と恋仲である琴浦(ことうら)を連れ去り、横恋慕する男に売り渡そうとする。

高津(こうず)神社の宵宮の晩。あとを追った団七は義平次に大金を渡すと偽り、琴浦を戻させるが、金に目がくらんだ義平次は騙されたと知ってさんざん団七に悪態をつく。

耐える団七が刀に手をかけると、義平次はその刀を抜いて斬ってみろと凄む。争うはずみに誤って団七は義平次に傷をつける。「人殺し」と叫ぶ義平次。もはやこれまでと義平次を殺害した団七。「悪い人でも舅は親」とつぶやいて死体を泥田に沈め、折から通りかかった宵宮の御輿の人混みに紛れて逃げてゆく。

 

「夏祭浪花鑑」は歌舞伎でも観ていて、特にコクーン歌舞伎の団七・十八代目中村勘三郎、義平次・笹野高史の「長町裏」が忘れられないが、それと比べても文楽の「長町裏の段」は秀逸。勘十郎が遣う団七の立ち回りはもちろん、義理と人情のしがらみに苦しむ姿が胸に迫り、団七の見得が圧巻だった。

 

歌舞伎にはポーズを決める見得があり、そこに拍手と大向こうからの声がかかるが、文楽にも見得を決める場面があって、赤い締め込み(フンドシ)ひとつになって全身刺青(ほりもの)姿の団七が義平次を殺すときの見得が「カンヌキ」と呼ばれるもの。腕を左右にまっすぐ広げて、門の戸を閉める閂(かんぬき)みたいなポーズなのでこう呼ばれるが、義父殺しに至ってしまう苦しみと義侠心とがない交ぜになって自分を奮い立たせる場面。客席からは拍手がわき起こる。

最後は、豪快に足を動かしてその場を去っていく「韋駄天」の見得。

足を大きく動かして一目散に駆けていく動作で、仏教における足の速い神さま韋駄天から名づけられたという。

 

「夏祭浪花鑑」は歌舞伎でも文楽でも人気の演目だが、最初は文楽作品として上演され、大当たりを取った翌月、即座に歌舞伎化されて、京の2つの芝居小屋で早くも競演されている。評判は江戸にも伝わっていって、文楽の初演の翌々年には森田座で上演され、その後、東西で繰り返し上演されるようになる。

その当時、文楽で上演されたものが歌舞伎化されたり、その逆のこともよくあり、両者は互いに交流し合っていたようだ。

団七・徳兵衛・三婦の3人の男伊達を主人公にした物語も、もともとは歌舞伎で上演されていたもの。初代片岡仁左衛門により元禄11年(1698年)11月に大坂・片岡仁左衛門座で初演された「宿無団七(やどなしだんしち)」が最初で、団七を初代の仁左衛門が演じた。

初代片岡仁左衛門は元禄9年(1696年)冬から宝永6年(1709年)まで、主に大坂で活躍。各種の役者評判記によると容姿に優れ、眼光のすさまじい「敵役の随一」と評され、団七の演技も高く評価されて大当りをとったという。

以降、宿無団七の書替え狂言がつぎつぎに演じられ、元文5年(1740年)大坂・角の芝居 佐野川花妻座で初演された「宿無団七時雨傘」が文楽の「夏祭浪花鑑」に大きな影響を与えたといわれている。

ただし、単に「宿無団七」を人形浄瑠璃にするのでなく、そこに一工夫を加えたのが文楽の独創性。

寛保4年(1744年)冬、堺の魚売りが博打による争いから長町裏で人を殺し、翌春露見して処刑された事件があり、話題となった。この事件を元に歌舞伎の「宿無団七」を脚色したのが「夏祭浪花鑑」で、冬の大坂・長町裏で起きた実際の殺人事件を賑やかな夏祭りの宵に置き換えて描いた。

 

ところで、もともとの文楽の「夏祭浪花鑑」での団七には全身の刺青がない。首(かしら、人形のくびから上をこう呼ぶ)も今の「文七」ではなく、「団七」と呼ばれる首だった。

実は団七の全身の刺青は歌舞伎から逆輸入されたものだという。

歌舞伎では、文化・文政期(1804~1830年)の名優三代目中村歌右衛門の工夫で、さばけ髪で、赤い締め込みと全身の刺青により、大坂の無頼者の生臭い体臭や血のにおい、男の色気を表現したという。

さっそく文楽も歌舞伎をまねて団七に刺青を施したが、ついでに首も換えてしまった。

もともとは「団七」と呼ばれる首で、「夏祭浪花鑑」の団七に使ったことからこの名があるが、ギョロッとした丸い目で、頬骨が高く、面構えとしてはふてぶてしい雰囲気があるのが特徴。しかし、これでは刺青を入れたときに色気も出ないでサマにならないというので、「文七」が使われるようになった。

「文七」の首は、太い眉とキリリとした口許、強い意思と力の宿る目が特徴で、何かにジッと耐えているような悲壮感が漂う雰囲気もある。全身に刺青をしているところからも白塗りがふさわしいということもあり、「文七」に換わったようだ。

文楽と歌舞伎は互いに影響を与え合いながら、切磋琢磨して、自分たちの世界を模索していったようだ。

 

文楽公演が終わったのが夜の8時40分ごろ。

余韻を愉しむため、国立劇場近くのおでん割烹「稲垣」で軽くイッパイ。

ビールのあとは日本酒のヒヤ、ついでお燗酒。

つまみはまず、炙りカマスと地ダコの刺身。

大振りの牡蠣。

稚アユのフライ。

焼き細タケノコ。

おでんはダイコンとガンモ

ワラビのお浸し。

いい気分で帰宅。