TOHO CINEMAS新宿で1月27日から公開中のイギリス映画「イニシェリン島の精霊」を観る。
監督・脚本マーティン・マクドナー、出演コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、ケリー・コンドン、バリー・コーガンほか。
監督のマーティン・マクドナーは、田舎の閉鎖的な人間関係の中で生きる人々を描いた「スリー・ビルボード」(2017年)の監督で、今回のテーマともダブっている。生まれはイギリスのロンドンだが、両親はアイルランド人でアイルランドにルーツをもつ。
舞台はちょうど100年前、1923年のアイルランド西海岸沖に浮かぶ架空の島、イニシェリン島。日本では関東大震災が起きた年だが、アイルランドの本土は激しい内戦に揺れていた。しかし、島民全員が顔見知りのこの小さい島は戦火とは無縁の平和な日々が続いていて、男たちは地元のパブでビールを飲みながらのんびり語り合うことが楽しみだった。
その一人、心優しく気のいい男パードリック(コリン・ファレル)は、親友で音楽を愛する初老の男コルム(ブレンダン・グリーソン)からある日突然、絶交をいい渡される。理由は「お前はただ優しいだけで、詰まらない」からで、馬の糞の話を延々と2時間もするようなお前とはもう付き合わない、これからは時間を有意義に使って自分の死後も生き続けるような曲をつくることにした、といい放つ。
そんなコルムのいい分がまるで理解できないパードリック。平穏な毎日のどこが悪いのか、優しい人のどこがいけないのかといい返し、「きのうは俺のこと好きだっただろ?」とかつての友情を取り戻そうとする。
そんなパードリックに、コルムは「もう二度と話しかけてくるな。話しかけたらそのたびに自分の指を切り落とす」とまでいって、実際にコルムは、切り取った自分の指をパードリックの家のドアに投げつけ、ついには残った左手の指すべてを切り落としてパードリックの家に投げつける。
美しい海と空に囲まれ、穏やかな島で起こった2人の対立。やがて、死を知らせるといい伝えられる“精霊”が降り立ってくる・・・。
いろんな寓意が散りばめられているから、いろんな解釈ができる映画。見たあとであれこれ考えをめぐらせるのも映画の楽しみのひとつ。余韻を楽しむということか。
アイルランドは長くイギリスの植民地だった。独立戦争が勃発し、1921年に停戦条約が結ばれるが、その内容は、北部の6州と南部の26州を分断して、北部6州はイギリス領のままにしておくというものだった。これに反発して北部と南部を統一したアイルランド建国の動きが高まり、内戦に発展していった。
かつて共にすごしてきた2人の対立も、国を二分した内戦に通じるところがある。
「優しい人」を否定され、自分の寄りどころを失ったパードリックは、それまでの八の字まゆ毛の優しいけれど頼りなさげな男から一変して、「怒る男」となってコルムに逆襲していく。それは、イギリスの植民地から脱したはずが依然として主権が蹂躙され続けることへのアイルランド国民の怒りにも似ている。
ほかにも小さなコミュニティにおける軋轢とか、家族、男女の問題などなどが絡み合っていて、人と人との関係性というか共生とはどうあるべきなのかを考えさせられる。
小さな島なので、人間社会の矛盾が凝縮してあらわれるということもあるだろう。
イニシェリン島は架空の島だが、モデルとなる島があって、それはアラン諸島のイニシュモア島で、撮影の大部分もこの島で行われたという。
イニシュモア島は、8年ほど前にアイルランドを旅行したとき訪れた島だ。
アイルランド本島の西海岸にあるゴールウェイから距離にして50㎞ほど離れていて、フェリーで45分ほど。3つの島からなるアラン諸島では最大の島だ。
8年前に聞いた話では島の人口は900人ほどで、スーパー1軒、郵便局1つ。銀行も1つあるが週に2日だけオープン。しかし、パブは5軒ある。
ほかの2つの島も同じだが、イニシュモア島は一枚の岩盤でできていて、ここにはもともと土壌はなかったという。岩盤の上に岩路の砂ぼこりや道の両側にたまった砂利を集めて「土」をつくり、それに海藻などを混ぜて畑をつくった、と司馬遼太郎の「街道をゆく 愛蘭土紀行」に書かれている。
土をつくって畑にしても、土の厚さは5㎝程度。それでも人々はここに住み続けていて、その生命力たるやすごい。
過酷な島であるがゆえに、ヨーロッパの近代文明はなかなかここまではたどりつけず、昔ながらのアイルランドの文化、ケルト文化が色濃く残っていて、ここはアイルランドでもっともアイルランドらしいところといわれる。
今ではアイルランド人もあまり使わないゲール語(アイルランド語)が日常語となっていて、古い伝統もいまだに残っている。
ゲール語はアイルランドの第一公用語で、英語は第二公用語。ところが日常的にアイルランド人が使うのは英語で、ゲール語をしゃべるのは国民の2~3%にしかすぎないという。このままでは母国語が消滅してしまうというので、大学入試や公務員試験の必修科目にはゲール語が入っている。このため毎年夏休みになると高校生たちがどっと島にやってきてゲール語を学ぶ。日常会話では使わないが、エリートになるための条件がゲール語というわけなのだ。
イニシュモア島はじめアラン諸島は「精霊(妖精)が棲む島」でもある。
実際、イニシュモア島を歩いていると家々の敷地の中には小さな家が置かれてあって、精霊の家なのだという。
「イニシェリン島の精霊」というのが邦題だが原題は「The Banshees of Inisherin」。「バンシー(Banshee)」というのがアイルランドの精霊のこと。人の死を泣き声や叫び声で予告するといわれる。
映画の中で、コルムが作曲していた曲の名が「イニシェリン島の精霊」だった。
ひょっとして自分の指を切断して投げつけたコルムこそ精霊なのでは?とも思ったが、人間たちの諍いを黙って見つめるロバや牛、イヌたち動物の澄みきった目が心に残った。