行きたいと思いつつ、なかなか実現しなかったが、コロナ禍で毎年行ってる海外旅行もままならない中でせめて奈良ぐらいまではと、今年は出かけていく。
せっかく奈良まで行くので1泊することにし、それならと1日目は京都で開催中の杉本博司の特別展を観て、夜は大阪・日本橋(にっぽんばし)の国立文楽劇場で本場の文楽を楽しみ、翌日、正倉院展を観て帰京するスケジュール。
1日目、朝9時すぎの新幹線「のぞみ」で京都着は12時少し前。時分どきだというので京都駅構内にある「はしたて」で昼食。
京料理の名店・和久傳の直営店。ランチメニューは、はまち生海苔丼に季節の野菜かき揚げ煮麺、柿と蕪のなます、菜菹(さいしょ)。
菜菹とは漬物のことで、古い呼び名をいうらしい。
同寺にある塔頭・両足院で現代美術家・杉本博司の特別展「杉本博司:日々是荒日」が開催中で(11月1日から14日まで)、事前に予約しておいた。
時間前に建仁寺を拝観。
日本にお茶を伝えたことで知られる栄西が開山した臨済宗建仁寺波の大本山で、祇園の花街に隣接する京都最古の禅寺という。
お茶の木が境内のあちこちに植えられていて、ちょうど開花時期とあってチョウやハチなどが蜜を吸いにやってきていた。
建仁寺は俵屋宗達の国宝「風神雷神図屏風」を所蔵していることでも知られるが、現在は京都国立博物館に寄託しているため精細なデジタル複製画が展示されてある。
方丈前庭、枯山水の「大雄苑(だいおうえん)」
方丈の襖絵「雲龍図」。狩野永徳や長谷川等伯らと同時代の絵師・海北友松の作。ただし、これも複製画。
襖に刈り取った稲を干す様子が描かれていた。
大正期の京都画壇で活躍した画家・橋本関雪の「深秋」。
カワセミが描かれた襖もあった。
現代作家による襖絵や書も。
鳥羽美花作「舟出」(2014年)。
「型染め」の染色技法を用いた染色絵画という。
同じく鳥羽美花による「凪」(2014年)。
金沢翔子書「風神雷神」。
「田村月樵 遺愛の大硯」。
田村月樵は明治・大正期に活躍した画僧。生前愛用した長さが三尺もある大きな硯には、大海原に向かおうとしている1匹のカエルの姿が。
京都もようやく紅葉が始まったころ。
法堂の須弥壇には室町時代の作と伝えられる本尊「釈迦如来坐像」があるはずだが、なぜかその前に達磨大師の掛け軸が下がっている。
訪れた火はちょうど中国における禅宗の開祖・達磨大師の命日で、忌日法要が行われるため法堂の中は立入禁止。外から天上に描かれた小泉淳作の筆による「双龍図」を見る。
2002年(平成14年)に創建800年を記念して描かれたもので、大きさは畳108枚分もあるという。
法堂の外観。
三門。
そしていよいよ両足院の杉本博司展へ。
同院でも、「お寺は古い作品を残すだけでなく、表現を現代へ引き継ぎ、挑戦しないと未来の文化資産を生み出せない」と現代作家に襖絵や掛け軸を依頼していて、杉本が襖に描いたのが「放電場」と呼ばれているもの。
これは杉本の代表的な写真シリーズのひとつである「放電場(Lightning Fields)」を襖絵に応用したもので、同シリーズでは写真乾板の上に人工的な雷を起こし、その稲妻を可視化させている。
襖絵は全部で8枚。各襖ごとに1枚の和紙に繊細な電流が表現されている。
なぜ「雷」なのか。科学的に電気であることが証明される以前は、雷は神の怒り、雨をもたらす龍の化身、あるいは怨霊の祟りと考えられていたという。そこには宗教的な意味合いもあり、現代人にも通じるテーマといえるだろう。
書の「日々是口実」と「日々是荒日」は、禅語の「日々是好日」をもじったものだが、とくに本展のタイトルにもなった後者は、杉本が抱く「資本主義の限界から来る終末感」が強く反映されているという。
襖のもう片面には雨が表現されていて、襖の端にしたためられた杉本の一首。
杉本博司展のあとは大阪へ。
日本橋で下車してホテルにチェックイン。
日本橋駅は地下鉄(堺筋線・千日前線)も通っているし、近鉄奈良線の近鉄日本橋駅もあり、京都から来るのも奈良へ行くのも便利な駅。
ひと休みしてからすぐ近くにある国立文楽劇場へ。
「令和3年錦秋文楽公演」の第3部、午後6時開演で演目は「団子売(だんごうり)」と「ひらかな盛衰記」。
さすがに文楽のふるさとともいえる場所だけに、東京での文楽の会場である国立劇場小劇場なんかとは比較にならないほど立派な劇場。
ロビーでは巨大な文楽人形の頭(かしら)がマスク姿でお出迎え。
絵看板も楽しげで観劇気分を盛り上げてくれる。
1階の資料展示室では、そのときの公演に合わせて昔の資料や道具類などが展示されていて、とてもよい観劇の参考になっているが、今回は「ひらかな盛衰記・神崎揚屋の段」の舞台も再現されていた。
「ひらかな盛衰記」は1739年(元文4年)に初演された全五段時代物の人形浄瑠璃。軍記物「源平盛衰記」を題材にしていて、「ひらがなのようにわかりやすく書かれた源平盛衰記」というのがタイトルの意味だという。
今回上演されたのは、四段目の「辻法印」と「神崎揚屋」。
登場するのは、宇治川の戦いで佐々木四郎高綱と先陣争いをした梶原源太景季と、源太の妻(恋人)の千鳥(今は廓に身を売って梅ケ枝)、そして源太の母、延寿。
宇治川の先陣争いで高綱に先を越された源太は、戦いののち「情けない」というので父景時から勘当され(実は高綱には父の景時を助けてもらったことがあり、その恩ゆえに先陣を譲ったのだが、高綱の名誉のため黙っている)、家から追い出されて浪人となる。そんな源太を経済的に支えたのが梅ケ枝であり、2人を陰で見守ったのが延寿だった。
すっかんぴんとなった源太を養うため遊女となった梅ケ枝だが、そこへ慌ただしく源太がやってくる。一ノ谷の合戦が近づき、今度こそ武名をあげ、勘当を許してもらおうと、源太は梅ケ枝に預けてある源頼朝から拝領の「産衣」の鎧兜(源氏の嫡男の着初めで使われた鎧兜というのでこの名がある)を受け取りにやってきたのだ。しかし、梅ケ枝は「産衣」を源太への操を立てるため質に入れていて、その代金三百両のおかげで今まで客を取らないですんでいたと話す。新たに三百両を用立てしなければ取り戻すことができないと知った源太は絶望して切腹しようとするが、梅ケ枝は客に身を任せてでも何とか三百両両を準備するといって源太を安心させて帰らせる。
惚れた男に身を立ててもらいたい一心の梅ケ枝。三百両をつくるため、いい寄ってきた客からの身請け話を承諾するか、あるいはその客を殺してでも手に入れようかと思い悩む。そこで思い出したのが小夜の中山の「無間(むげん)の鐘」のいい伝えだった。鐘を打てばこの世の願いが叶う代わりに、死んだら無間地獄に落ちるというのが「無間の鐘」。梅ケ枝は、庭の手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打とうとする。と、そのとき、2階から質受けに必要な三百両の金が降ってきた。小判を投げ入れる手だけが見えてだれだかわからないが、のちの段で客に化けていた源太の母、延寿とわかり、母から息子への思いがけない情けの金だった。
文楽作品(歌舞伎も含めて)の多くがそうであるように、廓に恋人を売り飛ばすような男は、だいたいが自立できないやさ男として描かれ、武勲の誉れ高い梶原源太景季にしてもそうなのだろう。
そんな男を助けるのが、男を心底愛し支える妻であり恋人であり、母親なのである。
「忠義」や「武功」より、夫婦の「愛」、親子の「情」のほうが貴いんだよと、この作品は教えてくれる。
ちなみに「無間の鐘」というのは今も伝説として残っているそうで、静岡県掛川市の旧東海道の難所「小夜の中山」近くにかつて曹洞宗の寺があり、この寺にある「無間の鐘」をつくと、この世では金持ちになれるが、その代償として来世では無間地獄に落ちるといわれていたという。
ところが、「無間の鐘」を求めて大勢の人が寺を訪れたものの、危険な山道のため遭難する人が多く、これ以上の犠牲者を出さないためにと鐘は井戸に埋められ封印されてしまったという。その井戸は、掛川市の粟ヶ岳山頂付近にある阿波々神社に現存しているそうだ。
「辻法印の段」の義太夫は藤太夫、三味線は團七。藤太夫は亡くなった住太夫の弟子で、今後に期待している太夫。師匠の教えが厳しかったのか、日本語がよくわかる。
「神崎揚屋の段」の義太夫は千歳太夫、三味線は富助。人形は、傾城梅ケ枝に勘十郎、梶原源太景季に玉助、腰元お筆に清十郎、辻法印に玉佳、ほか。
勘十郎の梅ケ枝のすばらしいこと。ただただ見ほれる。
艶やかな傾城姿もいいが、「何としても三百両をこさえなければ」と、髪を振り回して苦悶する姿は見応えたっぷり。
ただし、本場・大阪の文楽公演なのに、広い客席に客が少ないのはガッカリ。
大阪人よ、もっと文楽を観なさい!といいたい。
終演は午後8時ごろ。ここのところのコロナ感染者の減少で飲食店の時間制限が解除されたため、歩いてすぐのところにある和食の店「藤久」へ。
ビールに日本酒、おまかせ料理を堪能。
かくて1日目は終わる。
(続く)