TOHO CINEMAS新宿で先週から公開が始まったアメリカ映画「ノマドランド」を観る。
平日の昼間だったが客席はほぼ埋まっていた。しかも若い女性が多い。毎週水曜日はレディースデーで割引なんだって。
「ミナリ」とともにアカデミー賞の呼び声が高い話題の映画。
原作はジェシカ・ブルーダーの「ノマド 漂流する高齢労働者たち」(2017年)。アカデミー主演女優賞を2度受賞しているフランシス・マクドーマンドはこの本を読んで衝撃を受け、映画化権を購入。監督も自分で見つけ出した中国人の女性監督クロエ・ジャオに依頼し、自ら主人公を演じた。
遊牧民とは、1カ所に定住することなく居住する場所を移動しながら主に牧畜を行って生活する人々のことをいう。その歴史は古く、とくにユーラシア大陸では遊牧民の集団が国家を築いたりしていて、モンゴル帝国はその代表といえるだろう。
ユーラシア大陸などでは今も遊牧民の暮らしは存在しているが、近年では牧畜などに縁のない都会の人々の間にも遊牧民、ノマドの暮らしが広がっていて、本来の意味から派生して、場所や時間にとらわれずに働く人やその働き方をいうようになっている。
映画が始まってすぐのマクドーマンドのセリフが本作のテーマをいい当てている。
「私はホームレスなんかじゃない。ハウスレスよ」。
「ホーム(家族やふるさと)はちゃんとある。ないのは、あるいは必要としないのは、ハウス(住む家)だけだ」というわけだ。
その土地から離れられない家なんかなくたって、いつも心の中に家族はいるし、移動する場所つまり行く先々の大地こそが自分のわが家(ホーム)なのだ、ということだろうか。
映画は、特に何か事件が起きるわけでもなく、まるでドキュメンタリーのように淡々と進んでいく。しかし、何もないように見えてドラマチックな物語が観る者に迫ってくる。それはなぜか。起伏のない物語であるがゆえに、むしろ主人公の内面のドラマがより浮き彫りになるからではないか。
そしてそれは、映画を観ているわれわれ自身の内なる対話につながっていく。
ネバダ州の企業城下町で暮らしていた60代の女性ファーン(フランシス・マクドーマンド)は、リーマンショックによる企業倒産の影響で長年住み慣れた家を失い、夫も死亡。自家用車に最低限の家財道具を積み込み、日雇いの職を求めて全米各地を流浪する“現代のノマド(遊牧民)”となる。
クリスマスシーズンにはアマゾン倉庫での仕分けスタッフ、観光シーズンにはRVパークの清掃員などの仕事、秋にはウエイトレスと、さまざまな季節労働の現場を渡り歩きながら、行く先々で出会うノマドたちと心の交流を重ね、誇りを持って自由を生きる人々の話を聞いていく。
本物のノマドも実名で登場し、自分を語っている。
バックで流れる音楽もすばらしかった。
音楽を担当したルドヴィコ・エイナウディはクラシックにポップなどの現代音楽の要素を取り込んだ作風が特徴の作曲家だそうで、主人公のファーンの内なる声が聞こえてくるような音楽だった。
最後の方でファーンが読む詩の中で、「どんな美しいものもいつかは衰える」というフレーズが心に残る。そして、「ノマドに『さよなら』はない。『また会おう、どこかで』といって別れるんだ」という言葉も。