善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

「黒と白のはざま」と「Black Lives Matter」

ロバート・ベイリー「黒と白のはざま」(吉野弘人訳、小学館文庫)を読む。

 

前作の「ザ・プロフェッサー」に続くリーガル・サスペンス

続きが気になって一気読みしてしまった。

 

白人至上主義結社KKKクー・クラックス・クラン)誕生の地、テネシー州プラスキ。幼い日、目の前で彼らに父を殺された黒人弁護士ボーは、ロースクールを出たあと故郷のプラスキに戻って弁護士を開業し、父を殺した犯人を探し続けるが、45年後の父の命日に復讐殺人の疑いで逮捕されてしまう。

教え子の冤罪を晴らすべく、70歳のロースクールの元教授トムと、熱血漢のやはり教え子リックの老若弁護士コンビが法廷に立つ。

あまりにも不利な状況の中、「負け知らず」の敏腕女性検事を相手に2人の反撃が始まるが・・・。

 

おもしろく読んでいくが、最後の方になると話が二転三転。そこまで話を転がしてどーするの?という感じもしないではないが、読み終わってスカッとするというより考えさせる結末ではある。

 

題名にいう「黒と白」とは、もちろん1つには人種差別問題を指しているのだが、日本語でもそうだが英語の「black and white」には「白黒はっきりとした」とか「明白な」という意味があるという。「黒と白のはざま」というからには、「白黒つけがたい」複雑な問題が物語の背景にあることを暗示している。

 

物語で焦点となるのは45年前のKKKによる黒人差別によるリンチ殺人事件。

アメリカでは殺人事件に時効はないから、何年たとうが罪から逃れることはできない。しかし、犯人はいまだに捕まっていない。

黒人弁護士ボーは、5歳のときに目の前で父親をKKKに殺されるのを目撃。犯人グループは白いフードをかぶっていたものの、リーダーの声には聞き覚えがあった。声の主はボーの父親が働く農場の経営者だった。ボーはそのことを保安官に訴えたが、だれも5歳の少年の証言を信じようとしなかった。

それは、5歳児の証言には信用性はないというよりも、KKKの犯行を見て見ぬふりをするというか黒人を殺してもいいという恐ろしい現実があったからともいえるだろう。

 

実際、アメリカでの人種差別にもとづく暴力の歴史に関する調査で、米南部では1877年から1950年までの間に、4000人近い黒人が私刑(リンチ)によって殺されていたことが明らかになっているという。73年間にわたり1週間に平均1人以上が殺されていた計算だ。

調査を行った団体の関係者によると、私刑のうち20%は、驚くことに、選挙で選ばれた役人を含む数百人、または数千人の白人が見守る「公開行事」だった。

「観衆」はピクニックをし、レモネードやウイスキーを飲みながら、犠牲者が拷問され、体の一部を切断されるのを眺め、遺体の各部が「手土産」として配られることもあったという。

さらに同団体によると、犠牲者のうち数百人が、投票をしようとしたり、黒人の地位向上を訴えたりしたこと、さらには歩道で脇に寄らなかった、白人の女性にぶつかった、といった些細な規則違反を理由に殺された。一方で同時代、黒人をリンチで殺害したかどで有罪となった白人は一人もいない。

(2015年2月12日付のAFP・BBニュースより)

 

今回の物語でも、犯人がなかなかつかまれなかったというよりも、45年の歳月を経て公民権運動や差別撤廃の声の高まりの中で、ようやく白人至上主義の犯罪が公正に裁かれるようになった、ともいえるのではないか。

 

しかし、差別の温床はいまだくすぶっている。最近も、黒人男性が白人の警察官に首を圧迫されて死亡した事件を受けて全米に広がった抗議デモで、人々は「Black Lives Matter」という言葉を口にしている(日本語に訳せば「黒人の命は大切」と日本のマスコミは伝えている)が、黒人の命を軽く扱ってきた歴史に今、アメリカの人々は向き合っているといえる。

 

ひるがえって日本ではどうか?人の命を軽く扱う風潮はないか?と自問自答してみる。